テスラのCEO、イーロン・マスクが「もし、何も変わらなければ日本は消滅するだろう」とツィートしました。2023年の日本の出生数が75万8631人と、統計開始以来の過去最少を更新したことを受けた投稿です。
2022年5月に「出生率が死亡率を上回るような劇的な変化がない限り、日本はいずれ存在しなくなるだろう」とツィートしたのに続き、2回目です。2年間、政治は対処できず「何も変わらなかった」ことに対する警鐘と言えましょう。
〇関西三都は人口減少都市
大阪、京都は人口減少が問題となっています。令和三年の人口減少都市ランキングでは1位が京都で11913人減少(総務省)。2位が神戸市の9208人、3位が北九州の8126人、4位が大阪の7766人となっています。
大阪を含む関西の三都が人口減少都市の上位なのです。これは社会的流出入も含んでいますが、東京に次ぐ、第二の中心地、関西の三都にイーロン・マスクのいう「出生率と死亡率が上回るような劇的な変化」が起きない限り、「日本は消滅」してしまうでしょう。逆に、日本を消滅させない鍵となる地域が、大阪、京都を中心とする関西だと思います。
大阪での講演ですので、当然、大阪万博の話となります。「ニュースでは、万博は間に合うのかという話しか聞こえてきませんが」というと、「日本人のことですから、必ず間に合わせます。1970年の万博の時もギリギリでしたし、始まる前あまり評判はよくありませんでした」との答え。
たしかに「太陽の塔」のあった「お祭り広場」の大屋根の工事は開会式直前までかかったそうです。また、大阪万博の前哨戦となったモントリオール博(EXPO67,カナダ)での日本館の評判は散々でした。しかし、開会されてみると6400万人の入場者だったのです。
私も小学校6年生でしたが、故郷の岐阜から3度行きました。5000年先の人類に残す松下館の「タイムカプセル」に影響され卒業の時に「タイムカプセル」を埋めたりしました。いわゆる欧米系の「外人」を見たのも万博が初めてでしたし、コンパニオンのお姉さんがきれいで英語を話しているのを見てびっくりしたものです。あの頃の関西は元気があったように思います。
〇次代のイノベーションを大衆化する万博
万博はイノベーションを起こす技術導入を一挙に広げ、大衆化させます。今や、ニューヨークは摩天楼が林立していますが、この摩天楼を可能にしたイノベーションとは何か。「エレベーター」です。階段しかなければ地上30階とか40階は無理でしょう。
1853年に開催されたニューヨーク万博。発明家エリシャス・モーチスの「安全エレベーター」が出展されました。「安全」というのは巻き上げロープが切れた際の落下防止装置を備えていることでした。これが世界初の実用的なエレベーターとなり、多くの大衆の関心を買い、「エレべーターは危険でなく安全」という意識改革をもたらします。
三年後、大衆が万博で安全と思ったオーチスの旅客用エレベーターがニューヨーク市の店舗に設置されることとなります。それが受け、一挙に摩天楼建設が進んだのです。
アメリカ合衆国独立100年記念の1876年、独立宣言の地フィラデルフィアのフェアモント公園で万博が開かれました。ここではタイプライターやグラハム・ベルの電話が出展されました。タイプライターは、コンピューターの巨人、IBMを生みます。電話から始まった通信がその後、インターネットとなり、現在のGAFAMにつながっていきます。
日本からは内務郷大久保利通を総裁にして、副総裁の西郷従道と事務官の田中芳男が現地へ派遣されます。その時の日本館で人気を集めたのはパチ、パチとソロバンをはじき計算の実演をした手島精一(後の教育博物館館長)だったそうです。アメリカとは大変な差がありました。
1970年の大阪万博では後の携帯電話につながるワイヤレステレフォンが、さらに、テスラの成長を支えるEV(電気自動車)が出展されています。
2025年の関西万博でも、日本を「劇的に変える」イノベーションの出展がされることを期待します。とくに次代につながるAI革命や電気自動車の画期的なイノベーションが見られるとよいですね。
〇明治維新後の人口減少
京都は明治維新で「人口減少の危機」に直面します。江戸が東京になり、元号が明治となり、天皇陛下も公家も東京に移ります。超安定的で巨大な内需、皇室需要が一挙になくなります。
京都の人口は35万人から25万人に激減します。しかも、禁門の変(1863)の大火で800か町,2万7000世帯,そのほか土蔵や寺社などが罹災したままで復興が進んでいませんでした。東本願寺・本能寺が焼失。私が今回訪問した「御幸桜」の華道家元池坊で知られる六角堂も罹災したようです。
そこで、京都がとった方策が「海外からの需要」を呼び込む、具体的には「海外から観光客を呼ぶこと」でした。同志社大学の創設者である新島襄の活躍で街角ごとに通訳ができる案内役、ガイドをおくことまでしたそうです。
2013年の大河ドラマ「八重の桜」で綾瀬はるかさん演じるヒロインの新島八重は新島襄の奥さんです。幕末会津に生まれ、板垣退助率いる新政府軍に対し、鶴ヶ城から最新のスペンサー銃を撃ち「幕末のジャンヌダルク」と言われた女性です。旧姓山本八重、会津藩砲術師範の家に生まれました。
山本八重のお兄さんが京都府顧問、京都商工会議所二代目会頭の山本覚馬です。禁門の変では「蛤御門」で長州藩を撃退します。しかし、鳥羽伏見の戦いで薩摩藩の捕虜となり、幽閉されます。
幽閉期間中にまとめた「山本覚馬建白(通称、管見)」が岩倉具視らの目にとまります。建白書は具体的で、女子教育の奨励、健康のために肉を食することなどもあったそうです。覚馬は明治3年(1870年)、京都府顧問として迎えられます。日本初の博覧会を京都西本願寺で開催。観光客として外国人を招き入れて、西陣織をはじめ京都の地場産業の振興、新島襄が同志社大学を創設するとき支援したりします。
「ローマ人の物語」を書いた塩野七生はローマ帝国発展の大きな要因は「敗者をも同化する寛容の精神」と述べました。敗者である会津藩出身の山本覚馬を京都復興のために招聘した岩倉具視はローマと同じ「敗者への寛容の精神」を持っていたようです。
〇京都銘柄と京都銀行
京都銀行は日本電産、任天堂などのいわゆる京都銘柄を株式として保有し、8000億円を超える含み資産を持つことで有名です。2年ほど前、京都銀行の研究所主催の講演に2年前に及びいただきました。その京都銀行を傘下に持つ京都フィナンシャルグループ(FG)が、地域の中堅・中小企業や老舗企業に資本支援する1000億円のファンドを4月1日に立ち上げるというニュースを興味深く拝見しました。中小企業などの資本支援は政府系金融機関が担うことが多く、地方銀行が独自に大規模ファンドをつくるのは珍しいからです。
京都銀行は京都北部の福知山市に本店を持つ「丹和銀行」がその前身で、1951年に「京都銀行」に改名します。その頃、京都には三井や住友など当時のメガバンクが全て出店していましたが、「たまたま『京都銀行』という名前があいていた」ので「京都銀行」としたのだそうです。
といっても、当時のメガバンク全部が支店をおいている京都では融資競争も大変だったのでしょう。有名大企業でなく、京都に本拠を置く「まだまだ発展途上の元気な会社」に融資、さらには出資したのが日本電産や任天堂に成長したのだということをお聞きしました。
話を聞きながら、「なるほど、今や世界的ゲーム機の任天堂もかつては花札・トランプの会社だった。花札・トランプではメガバンクの敷居は高かっただろうな」と思いました。
〇シュンペーターの「企業家」と「銀行家」
ケインズと並ぶ偉大な経済学者シュンペーターは経済発展をもたらすにはイノベーションが重要と述べました。シュンペーターはイノベーションには「企業家」だけでなく「銀行家」が大事だと主張します。
まず「企業家」がアイデァ、新しい技術の結合を持ち込みます。それに「銀行家」が信用創造を通じて投資資金を企業家に提供します。これで、はじめてイノベーションが実現し、経済発展は進むというのです。
イノベーションの実現において、銀行家は2つの役割を果たします。ひとつは、「目利き」。企業家を見定め、識別するです。もうひとつは「企業支援」。いったん資金提供を始めた後、ビジネス・マッチングや新市場についての情報提供をはじめとして、企業の業績改善につながる情報提供を行うことです。
各地方に基盤をおく地方銀行、信用金庫、信用組合などが「まだまだ発展途上だが元気な会社」に投融資すること。さらにネットワークを活かし、「企業支援」をしてシュンペーターの言う「銀行家」の役割を果たすこと。これが地域再生、さらに日本の復活に重要と考えます。
京都銀行はおそらく、シュンペーターのいう「銀行家」としての役割を果たされたのでしょう。それが、京都銘柄企業の成長と発展につながったのだと思います。
人口減少ランキングでワースト1位の京都です。しかし、京都は欧米からの観光客であふれており、任天堂、日本電産、京セラなど京都銘柄と呼ばれるグローバルに戦う企業群が元気です。
私の尊敬する友人である松井孝治氏がこの3月より京都の新市長になりました。京都が元気になり、日本全国に波及し、イーロン・マスクの「日本は消えてなくなる」発言の修正ツィートが近い将来、世界に流れることを期待いたします。
日経平均があっというまに4万円を超えました。現在は急速な上昇の調整局面でもあるようですが、投資会社ブラックロックのラリー・フィンクCEOが日本の繁栄の1980年代を想起して「歴史は繰り返す。今、起きつつある奇跡はもっと長く続くだろう」と述べました。私も100パーセント同意します。
1967年秋、今から半世紀以上前のことです。松下幸之助は「株式の大衆化で新たな繁栄を」と題した提言を発表しました。「一般の人が喜んで株に投資し、それを長期にわたって保持することが結局利益になるような配慮を、企業もまた政治の上でもしていかなくてはならない」というのです。今の日本は松下幸之助の提言に学び、「株式の大衆化で日本復活を」を目指すときと思います。
新NISA導入で多くの人が株式投資に注目しています。ただ1989年末の38,915円の史上最高値を34年ぶりに抜いたといっても、要は元に戻っただけの1倍。NY ダウの1989年末の終値は2633ドル。現在は約38000ドルですから約15倍です。
政治が株式の大衆化で「株主目線」になり34年後に日経平均をアメリカ並みの15倍にするという政策目標をたてる。現在4万円の15倍というと、60万円です。そうなれば、老後の資金問題もかなり解決するのではないでしょうか。
〇一直線の衰亡はない
私は国家の興亡と衰退を研究するのが好きで、塩野七生さんの「ローマ人の物語」「海の都の物語」などは何度も読んでいますし、中国の十八史略、史記、戦国策は座座右の書です。その中から学んだことは、いったん大をなした文明、国は直線的には衰亡には向かわないということです。
一時期繁栄した国は衰亡の兆しが表れた後、何回かの浮沈を繰り返します。英国病と言われたイギリスがサッチャー政権で復活し、20世紀で繁栄が終わるかと思われたアメリカが、IT革命とGAFAMの台頭で再び復活しました。
日本に勢いがあり、ハーバード大学のエズラボーゲル教授が「ジャパンアズナンバー1」を出版したのが1979年です。私は当時大学生で興奮して読んだものです。アーサー・ヘイリーの小説「自動車」ではなぜアメリカ車の品質が悪いのかということが詳細に書かれていました。アメリカの衰亡と日本の興隆はまちがいないというのが当時の雰囲気でした。
アメリカを復活させた要因の一つが1980年代のガバナンス改革です。米国はコーポレートガバナンスを強化、社外取締役を強化し、友人で占められ、株主目線でなく不信を放置していた取締役会を変えました。
ファンドも経営者に意識改革を迫りました。名経営者として知られるGEのジャック・ウェルチは「(株主に対して)説明責任を果たせない経営者にKKR(アメリカに本社をおくファンド)が規律をもたらした」と述べました。
もう一つはアメリカがIT革命のパラダイムシフトに大きく乗ったことです。アメリカが駄目になったといわれていた1975年にマイクロソフトが、1976年にアップルが創業されました。「衰亡の兆し」がある中に「復活の芽」が出ていたのです。製造業が中心で「インターネット」に懐疑的だった日本はこの大波に乗りおくれ衰退します。
日本でもガバナンス改革が進みつつあります。私もいくつかの会社の社外取締役を勤めています。海外の日本株再評価も日本の経営が株主視線重視に変わりつつあることを評価していると言えます。アメリカから30年以上遅れていますが(笑)
IT革命に変わり、AI革命が起こりつつあります。AI革命において専門家の開発競争である第一フェーズは米国と中国の争いで日本は蚊帳の外です。ただ、これから一般の人が使い、応用技術となる第二フェーズは日本の得意分野です。まだ間に合います。日本復活の鍵はAI革命第二フェーズにいかにのるかにあります。
〇日立から離れたKE成功の鍵「オーナー管理職」
衆議院議員前議員会という衆議院の同窓会があります。毎年1-2回、講演がありそののち衆議院議長公邸で着席の昼食会があります。昨年、日立出身の先輩大臣経験者と隣り合わせになりました。ちょうど、その頃日立の株価が上昇し、日立の復活が注目されていたので「良かったですね」と言いました。
その時、KEという会社の話を聞きました。KEは半導体製造装置のKOKUSAI ELECTRIC(KE)。日立製作所グループの一部門だったのですが日立が「中核事業ではない」と見切ったため、2017年に買収した米投資会社KKRの下で改革しました。「日立という名前も消えてしまった。働いている人は複雑だろうな」というのが先輩大臣経験者の意見でした。「でも市場が評価しているから良いではないですか」との私の言葉にも複雑な表情でした。
KEの株価は昨年10月の上場以来2倍に急騰しました。日経新聞によると「日立時代は、資金を使うにも他部門との調整に追われて規模もスピードもなかった。今は研究開発や設備への投資が倍速で進む。日立を離れた17年まで遡ると、株価は30倍に化けた」とのことです。
私が注目したのは「攻めに駆り立てたのは、部長以上が株主になるしくみだ」というものでした。部長以上の約150人が会社の株を持ちオーナーの意識で働いた結果、保有する株の価値は一人平均2億円以上に膨らんだというのです。社員であり、会社のオーナーであるという意識が会社を成長させ、それが結果として、株価の上昇につながりました。管理職が「オーナー」である「オーナー管理職」が会社を発展させたのです。
〇創業者でなくとも「オーナー経営者」になる方法
2021年3月、携帯電話会社ソフトバンクの社長に就任したばかりの宮川潤一氏は個人として会社から借り入れた資金でソフトバンク株200億円を市場から買い付けると発表し注目を集めました。
社長が自社株を購入し、保有すること自体は一般的なことで珍しいことではありません。経営陣が中期的な企業価値向上をめざす意識付けとしてむしろ推奨されているといっていいでしょう。ただ、200億円という巨額の自社株を会社から融資を受けて購入する例は今までにないと思います。
宮川氏はすでにソフトバンク株を約47万株保有していました。仮に3月末時点の株価で200億円規模の追加購入をすると、合わせて約1437万株(発行済み株式の0.3%)の保有になりました。
グループ創業者の孫正義氏は親会社ソフトバンクグループの株は24.6%持っていますがソフトバンク携帯株は80万株しか持っていません。宮川氏の1437万株は役員の中で、ダントツとなります。宮川氏は「創業者でないオーナー経営者」になったともいえます。
当然、株価下落のリスクがあります。10%下がったら20億、30%下がったら60億円です。相当な覚悟が必要だったと思います。。
ソフトバンクが宮川氏に資金を全額融資し、購入する株式を担保としました。経営トップとして業績と株価に責任を持つ姿勢を明確にするもので、宮川氏がソフトバンクグループの孫正義会長兼社長らと経営トップの責任について議論する中で、自社株買いのアイデアが出たといいます。
宮川氏は「私個人として当社株式を保有することで、事業環境がいかに変化しようとも乗り越えていくという決意と、当社事業の成長を望む強い気持ちをステークホルダーの皆さまと共有したい」と述べました。
3年が経ちました。2021年4月に約1400円であったソフトバンクの株価は、現在2000円を伺うところまで上昇しています。約35%の上昇です。200億円ですから約70億円の含み益ということになります。
90年代以降、IT革命にのり起業し、ある程度成功した企業が後継者を考える時期に来ています。それらの企業の後継者に株主目線を持たせるためには、ソフトバンクの「創業者でないオーナー経営者」になる宮川方式を参考にしていただきたいと思います。
〇株式の大衆化で日本復活を
NISAが導入されたこともあり、多くの人が株式投資に興味を持ち始めています。松下幸之助は前述の「株式の大衆化で新たな繁栄を」と題した提言でより具体的に「政府に望みたいことは、政府みずからが株式の大衆化なり株主尊重の意義を正しく認識、評価することである」「その上に立って、すべての国民に株式をもつことを奨励、要望し、それを実現するための具体的な奨励策、優遇策というものを大いに打ち出すことが大事だと思う」と述べます。
松下幸之助は「たとえば株を持つために融資するとか、奨励金を出すとか、あるいは一定以下の少数株主の場合は税金をタダにするとか、きめ細かい施策」を講ずべきだと具体的に述べています。
「オマハの賢人」と呼ばれるウォーレン・バフェット氏は「株主への手紙」で「米国は投資家にとって素晴らしい国」と母国市場に絶大なる信頼を示しました。日本を「投資家にとって素晴らしい国」にできるよう、政治家は知恵と汗を出すべきだと思います。
裏金問題も大事でしょうが、国会はぜひとも「株式大衆化の優遇策」と「投資家にとって素晴らしい国にするには」を議論してもらいたいと思います。昭和の呪縛から解き放たれ日経平均が4万円を超えた今こそ、日本復活の最後のチャンスかもしれないのですから。
小寒の候 年明けから悲しいニュースが続きました。小寒の入り、鎌倉は春のような陽気でした。鎌倉、円覚寺には初梅が咲いていました。
「本年もいずれ良きことある予感 小寒の日に梅の咲ければ」
〇GDPの呪縛をはなれ「最大」でなく「最良の国」を
昨年末には日本のGDPがドイツに抜かれて4位になるとか、一人当たりGDPがイタリアに抜かれてG7最下位になるというニュースが流れました。日本のGDPは世界第2位でアメリカに次ぐのが常識だった昭和世代にはショックなニュースでした。日本の一人当たり名目GDPは3万4064ドルとなりました。イタリアに抜かれて主要7カ国(G7)で最下位です。ラテン気質で人生を楽しむことが最高と思っているイタリア人より低いというのも割り切れないものがあります。
1人当たりGDPが香港や台湾にも抜かれているのは、銀座へ行くとよくわかります。銀座和光でグランドセイコー「桜隠し」を買っていたのは香港や台湾の人。日本人はその通訳です。私は京都へよく行くのですが、嵐山では香港、台湾の富裕な観光客を乗せた人力車を日本の若者が引いています。おそらく、いずれ韓国にも抜かれるでしょう。
ただ、あまりGDPに囚われるのも考え物です。そもそもGDPの前身であるGNP(国民総生産)が最初に考案されたのは、1930年代の大恐慌と第二次世界大戦でした。フーバーが大統領だった1932年、米議会上院は世界恐慌の米国経済への影響を理解するため、国民所得を推計することを商務省に要請。商務省は、ソビエト連邦の成立でロシアを脱出したベラルーシ出身の若手経済学者、サイモン・クズネッツさがGNPを開発しました。つまり、「どれだけ悪いか」を知るための指標として開発されたものです。
1971年にノーベル経済学賞を受賞したクズネッツですが、生みの親でありながらGNPを完全なものと考えていませんでした。「国家の福祉は、(GNP開発のとき定義した)国民所得というものから推計することはほとんどできない」と述べています。
明治維新以降、日本は帝国主義の時代の中、軍事力拡大で「最強の国」を目指しました。敗戦後、日本は経済成長を追い求めGDP「最大の国」を目指しました。次はGDPの呪縛を放れ「最強」でも「最大」でもない「最良の国」を目指すべきです。
〇生産年齢人口一人当たり成長率は日本がトップ
また、世界の学者は「一人当たりGDP」は「ますます誤った印象を与える指標」と主張します。経済学者のヘスース・フェルナンデス=ビジャベルデ(ペンシルベニア大学)、グスタボ・ベンチュラ(アリゾナ州立大学)、ウェン・ヤオ(中国・清華大学)の各氏です。は彼らが1人当たりGDPの代わりに注目するよう提案しているのが生産年齢人口1人当たりGDPです。
1月2日のウォールストリートジャーナル。「日本の経済成長率はG7トップ、この指標なら・・総人口の代わりに生産年齢に注目すると、日本は先進7カ国の下位から1位に浮上する」という記事が掲載されました。
1990年から2019年の間、日本のGDPの年間成長率は1%未満で、米国の約2.5%を大きく下回りました。1人当たりGDPの成長率では日本が0.8%と停滞したのに対し、米国は1.5%でした
しかし生産年齢人口1人当たりGDPでは両国の差はほとんどなくなり、成長率は日本が1.44%、米国は1.56%。リーマンショックの2008年から新型コロナウイルス禍直前の2019年までの期間では、生産年齢人口1人当たりGDPの成長率はG7で日本が最も高かったというのです。
つまり、日本の高齢化率は世界でも有数な急速で働く人が少なくなり、高齢化で働かない人の比率が増えている。家族で言えば、給料をもらってくる人が少なくなり、年金で暮らしている人が多くなる。大雑把に給料÷家族数を一人当たりGDPと考えれば、一人当たりGDPが少なくなるのは当たり前。それでも、なんとか食い止めているのは、給料を稼ぐ「生産年齢人口」=現役世代が成長率を上げて頑張っているということになるのです。
日本は今後、高齢化が進む世界の他の国にとってモデルになりえます。日本の人口減少が始まったのは2010年。しかし、15歳から64歳までの生産年齢人口は30年前の1990年代前半から減り始めています。
ウォールストリートジャーナルは「生産年齢人口で見たGDPから分かるのは・・日本は素人目にも明らかにうまくやっていることだ。瀕死とされた経済成長が30年間続いても、日本はまだ明らかに富裕国で、生活水準は高い」と日本をほめているのです。
〇「最良の国」を目指すには・・ライフスタイルを変えよ
私は38歳から47歳まで、高輪の衆議院議員宿舎にいました。小泉元総理と同じ宿舎でした。48歳から57歳まで、ソフトバンクまで車で10分の港区のタワーマンション住まいでした。充実した日々でありましたが、多忙でした。世界と日本がグローバリズムの大波に巻き込まれる中で、日本および企業がどう進むかを考え、実行する日々でした。政治でも企業でも「経済成長の復活」「売上高最高」をめざしました。GDP「最大の国」を目指していたのです。
ソフトバンクを退任したのを機に、松下政経塾で若き日を過ごした湘南に移住して、7年目になります。ライフスタイルを変えるために湘南移住を決意した時に参考にしたのが、「世界を不幸にしたグローバリズムの正体」などの著者で、ノーベル経済学者のジョセフ・スティグリッツの論考です。スティグリッツは「経済成長率を超える幸福度指標の提案」で経済指標のGNPを作り直そうとしています。
「今後、どうやって生きていくかを考え、ライフスタイルを整えていく必要がある。・・暮らし方を変えたほうが良い・・生活水準の向上を考えるとき、より重要なことはモノではなく、『どう生きるかだ』」スティグリッツ氏は生活水準を上げるために、以下のような具体的な事例を5つ挙げています。
1,住みよい都市に住む 2,車を持つ必要はない 3,食事が重要 4,自然を楽しめる環境、公園 5,夜でも散歩できる環境
私がこれを参考にどのようにライフスタイルを変えたかを以下に述べたいと思います。
1.住みやすい都市に生きる事である・・移住した辻堂は「本当に住みやすい街」ランキング1位なのだそうです。移住した頃は茅ケ崎や鎌倉に比べ地味で、1位ではなかったのですが(笑)
2.公共交通機関があれば、車を持つ必要はない・・駅まで3分の駅近を住まいとし、運転免許証は返上しました。環境にも貢献できます。東京まで約50分の駅です。
3.大事なのは適切な食事だ・・相模湾でとれた新鮮な魚が家から2分の魚屋さんで買えます。野菜も安く、食費は港区の3割は安くなります。
4.自然を楽しめる環境、公園・・辻堂海浜公園などたくさんあります。なんといっても海が近く、海岸を散歩すると左に江ノ島、右に富士山が見えます
5.夜でも安心して散歩ができること・・夜でも、もちろん安全です。家での風呂代わりに夜行く温泉付きのスポーツジムまで徒歩4分です。しかも、会費は港区の半分です。
家の隣は湘南テラスモールがあり、毎日夕食前に30分散歩してます。冷暖房も効いており、絶好の散歩ルートです。
私は湘南移住をしたことで「最良の国、日本」をつくるヒントを得たような気がしています。コロナによって、オンライン会議、在宅ワークがニューノーマルになりました。現役世代でも、移住でライフスタイルを変えることはできます。都心部でなく、ちょっと離れればウォールストリートジャーナルのいうように「瀕死とされた経済成長が30年間続いても、日本はまだ明らかに富裕国で、生活水準は高い」ことが実感できるのです。
地方の首長は「住みやすい都市」を創ることに全力を注ぐべきです。それが、日本が「最良の国」になることにつながります。
私のように老年になった者は、生産年齢世代=現役世代が頑張っていてくれていることに感謝し、2024年もこころ豊かに過ごしてゆきたいと思っています。そして、現役世代は、生産年齢人口の成長率はG7でトップであると自信をもって仕事をしていただきたいと思います。そして是非「最強」でも「最大」でもない「最良の国」日本を創ってください。
東京ビッグサイトで開かれた「中小企業ものづくり・サービス展」で講演させていただきました。テーマは「日本型パーパス経営と飛躍の経営戦略」というものです。
「企業のパーパス、目的とは、社会課題を解決しながら稼ぐことにあります」この言葉から、講演はスタートしました。
〇企業の目的は「社会課題」を解決しながら稼ぐこと
社会課題を解決しながら稼いだ企業人の代表的な二人が松下幸之助と、稲盛和夫だと思います。
松下幸之助は23歳で創業、昭和7年、37歳で真使命を知ったといわれます。「産業人の使命は貧困の克服にある。社会全体を貧しさから救って、富をもたらすことにある」
その実践哲学として、生産に継ぐ生産、生産性の向上によって家電製品を水道の水のように安くする。そして、この世から貧困をなくすとしました。これが世に名高い「水道哲学」です。
さらに進んで昭和30年代のこと。当時の、ソ連、ミコヤン第一副首相と松下幸之助との会話。
「お国は人民を解放されたとお聞きしています。それは大変、新しい行き方だと思います。しかし僕は僕で、婦人を解放したんですよ」
「それはどういうことですか」
「以前、日本の婦人は、食事、洗濯、また掃除の重労働で、朝から晩までいろんな家事に追われて、ほとんど自分の時間がもてなかった。しかしぼくは、炊飯器や洗濯機や掃除機など、いろんな家庭電気器具をつくって、日本の婦人を台所から解放したんですよ」。
「あなたは資本家だけど、偉い!」
松下幸之助は、婦人の開放によって、長者番付1位になりました。
稲盛和夫は「通信が自由化」され、NTTに対抗する「第二電電」(現在のKDDI)を立ち上げるとき、「動機善なりや」と自らに問い続けたと言います。電電公社からの独占で、日本の情報通信料金は高止まりで国民は苦しめられている。京セラにとって情報通信は専門外だが、参入して競争を促し、情報通信料金を安くするのは、「世のため、人のためになる」という結論に達しました。それは稲盛和夫の行動指針である「利他の心」によるものでした。
KDDIは時価総額10兆円を超え、日本の時価総額、トップ10の会社になりました。
松下幸之助の「水道哲学」、稲盛和夫の「利他の心」。これはパーパス主義に通じます。
〇フリードマン・ドクトリンからパーパス主義へ
現在の世界経済を引っ張るマグニフィセント・セブン(アップル、マイクロソフト、アルファベット、アマゾン、エヌビディア、テスラ、メタ)が伸びてきた21世紀初頭、世界を支配する経営思想は、市場自由主義=フリードマン・ドクトリンでした。
フリードマン・ドクトリンとはシカゴ大学のノーベル経済学者のミルトン・フリードマンを始祖とする「企業経営者の唯一の使命は株主利益の最大化である」というものです。その結果、「経営者は法律が要求する以上の社会的責任と取らなく」てよく、「社会的責任をとらないでもたらされる利益の極大化は善である」というところまで、進みます。
マグニフィセント7が「荒野の七人」とも呼ばれるのは、行動が「ビジネスの目的は唯一、ルールをクレバーに守りながら、利益を増やすことにある」という、「株主資本主義」、フリードマン・ドクトリンに思想基盤があるからでしょう。
ビジネス・ラウンドテーブルは、アップルからウォルマートまで米国の主要企業が名を連ねる日本の経団連にも似た「財界ロビー団体」です。コロナが始まる前の2019年8月19日、ビジネス・ラウンドテーブルが発表した声明は、ビジネス界に大きなインパクトを与えました。企業経営の原則とされていた「株主資本主義」を批判し、「ステークホルダー資本主義」への転換を宣言したのです。
企業は自社の利益の最大化だけでなく、パーパス(Purpose) の実現も目指すべきだという姿勢を表明、「パーパス主義」が大きな潮流となりました。
米国企業トップ181人の署名が入った声明は、次のように締めくくられていました。「どのステークホルダーも不可欠の存在である。私たちは会社、コミュニティー、国家の成功のために、その全員に価値をもたらすことを約束する」
これは、前節で述べた松下幸之助の「水道哲学」、稲盛和夫の「利他の心」に通じます。つまり、パーパス主義は日本に昔からあり、日本のお家芸であるというのが、今回の講演、「日本型パーパス経営と飛躍の経営戦略」の主題でした。
〇パーパスは飛躍の経営戦略である
パーパス経営を実践しようとする人は、そんなきれいごとを言っていて経営ができるのかという疑問を良くぶつけられるそうです。「他を利する」ところにビジネスの原点があると主張した稲盛和夫さんは「弱肉強食のビジネス界で・・そんなおめでたいことばかり言って、あの美言の裏には何かある・・」と言われたそうです。
松下幸之助は23歳の時に3人で起業しました。零細企業が、中小企業になり、「真使命」を発表する直前には15年間で、従業員1100人、10か所の工場を持つ定義上の「大企業」に成長していました。しかし多くの企業が、ここからの成長で苦悩します。自分たちの成功に溺れ、驕りにつながり、組織の巨大化によって官僚化してゆきます。その結果、これ以上「飛躍」しないのです。
「リーダーシップ論」、「変革の8段階のプロセス」で有名なジョン・P・コッターハーバード大学教授は著書で松下電器を分析しました。松下電器は「産業人の使命は貧困の撲滅にある」という「真使命宣言=パーパス」によって、「成功した企業にとって最も危険なものである驕り」を克服したと言います。「あなたの使命はこの地上から貧困を撲滅することだと言われれば、現状に満足し、傲慢になっていられなくなる」
さらに、それは「従業員を鼓舞した。勤勉さを促進した」「松下の労働者は一致団結して、益々他社との競争力を高めていった」と述べます。(「幸之助論」ダイヤモンド社)
その後、松下電器は売上成長率15%を続け「飛躍」してゆきます。つまり、パーパス経営とは「飛躍の経営戦略」なのです。
〇尊敬される経営者、ビジネスリーダーに
「企業の目的とは、社会課題を解決しながら稼ぐこと」と定義したのコリン・メイヤーオックスフォード大学教授です。
「日本企業の経営理念では、投資家だけでなく、従業員や社会全般の利益も促進する役割が重視されてきた」。私も同感で、日本は昔からパーパス経営であったと思います。
「変わったのは安倍政権が成立し、コーポレートガバナンス改革の積極的な取り組みが始まった2013年以降だと思う」とメイヤー教授は言います。
現在、安倍派の裏金問題が取りざたされていますが、パーティ券の売りさばき額が政治家の出世に影響するというのは、どこか利益第一主義と通じるように思います。
メイヤー教授は英国の調査会社、イプソス・モリスの「毎年1000人の英国人対象に続けてきた調査」について紹介しています。2020年の調査で、「どの職業の人が真実を話していると信頼するか」の質問に対し、25職種中トップが看護師、医師、大学教授と続きます。最低のところにいるのが政治家で、ビジネスリーダーは19位、地方議会より低くなっているとして、ショックを受けています。この原因がフリードマン・ドクトリンの利益第一主義だというのです。
私が若い頃、政治家は信頼できないが、経営者、財界人は尊敬すべき人物が多いというのが、通説でした。「メザシの土光」と言われ質素な生活で行政改革を進めた土光敏夫氏、その参謀瀬島龍三氏。もちろん松下幸之助塾主、そして稲盛和夫さん。残念ながら、現在の経営者にはそんな人はいないように思います。
この年末年始、是非とも自社の「パーパス」をじっくり再考し、尊敬される経営者、ビジネスリーダーを目指してほしいと思います。それこそが、最高の「飛躍の経営戦略」なのです。
11月27日は、わが師、松下幸之助の128回目の誕生日でした。それにちなんだ松下政経塾の卒塾生の還暦以上の同窓会、還暦会が26日(日)に東京で行われ約50名が参加し、旧交を温めました。
すでに、私のように65歳を過ぎ前期高齢者の人もいますので、別名「生存確認の会」と呼ばれています。
政経塾2期生で同期である長濱参議院副議長、3期の鈴木総務大臣などの衆議院、首長などの政治家。大学教授、社長・取締役などの企業経営者など現役もまだ多く、皆、意気軒高でした。
この時期の塾生は松下幸之助塾長に直接教えを受けた世代です。そして私の頃は、松下政経塾の最終試験は松下塾長の面接。判断基準は「運と愛嬌」であったということは、私の講演を聞いてくださった方はよくご存じと思います。
還暦会に集まった人たちは卒塾生の中でも、「運が良い人」であると私には思えました。
〇運と愛嬌
リーダーは、夢を語り目標を語ります。それが事業計画になり、営業計画になる。しかし、それを実現するのはリーダーだけではできません。まず、部下やスタッフ。顧客としてのお得意さまや銀行、取引先、地域社会などのステークホルダーに協力してもらわなくてはなりません。衆知を集め、力を結集するには、まず人が寄ってくる「愛嬌」が必要なのです。
もう一つは運。経営決断をするとき、できるだけ情報を集めます。しかし、3年前にコロナが発生した時、3年も長引くと予想できた人が少ないでしょう。ロシアがウクライナ侵攻し、これもこんなに長引き、さらにガザで紛争が起き、アメリカがウクライナまで手が回らなくなっていくことを予想できた人も多くなかったでしょう。つまり、決断は不確実な情報の中でなさねばなりません。その決断が良い方に動くかどうかはその人間が持っている「運」だというのです。
1904年2月8日に勃発した日露戦争。時の海軍大臣山本権兵衛が東郷平八郎を天皇陛下に連合艦隊司令長官に推挙した理由は「東郷は運のいい男でございます」でした。1905年5月27日、日本海海戦において東郷平八郎は歴史的勝利を納めます。将帥がもたなくてはいけない最大のものは「運が良いこと」なのです。
〇運のいい人の法則
イギリスのハートフォードシャー大学の心理学者リチャード・ワイズマン博士は、「運の良い人」「運の悪い人」数百人を集め、10年がかりでどんな人の運がいいかとの実験調査をしました。その結果「運がいい人の法則」を見出すことができました。米国NBCテレビでも公開実験を行い、著書「運がいい人の法則」は世界30か国でベストセラーになりました。
4つの法則とは、
法則1 運のいい人はチャンスを最大限に広げる
法則2 運のいい人は虫の知らせを聞き逃さない
法則3 運のいい人は幸運を期待する
法則4 運のいい人は不運を幸運に変える というものです。
〇法則1 チャンスを最大限に広げる
ワイズマン博士が、運の良い人と悪い人に宝くじのあたり番号を予測してもらい、その番号を買ったところ、運が良い人も悪い人も同じだったそうです。
懸賞によく当たるという人も、予知能力があったのではなく、何回も懸賞に応募していることがわかりました。よく当たる人の話では毎週60通のハガキと70件のインターネット登録という努力をしているというのです。つまり、チャンスをつかむ可能性を拡げるために努力しているのです。
人のネットワークを広げるのもチャンスを創り出すコツです。ワイズマン博士の専門、心理学では人間は5つの特性で分析されます。協調性、誠実さ、外向性、開放性、神経症的傾向です。これを50点満点で比較してみます。
協調性と誠実さでは運のよい人と悪い人とも同じくらいのスコアでした。
開放性と方向性では良い人、悪い人がそれぞれ35点と27点、33点と27点と差が出てきます。外向性と開放性が高い人は、ネットワークも創りやすいことは容易に想像できます。
一番差が出たのは、神経症的傾向で良い人10点、悪い人27点でした。神経症傾向は、情緒安定性とも呼ばれ、感情的に繊細であり、心配性で短気な傾向があることを表します。 神経症傾向が高い人は恐怖にかられ、物事を悲観的に見ます。
黒人として初めて米軍の大将になり、統合参謀本部議長、国務大臣をつとめたコリン・パウエル氏にはワシントンで何度もお会いしました。彼は、運の良い人でしょう。
彼は、名言や格言を机と透明カバーのマットカバーの間に挟んでいました。それが、「13か条のルール」として日曜紙、「パレード」に紹介され、ネットに流れ、世界的に有名になりました。
その12条に「恐怖にかられるな。悲観論に耳を傾けるな」とあります。
〇法則2 虫のしらせを聞き逃さない
運の良い人生を歩もうとするなら、誤った決断、行動を避けなければなりません。運の良い人はなにか、嫌な予感がしたら立ち止まって慎重に考える傾向があるというのです。
ワイズマン博士の調査によると「直感や本能を信じることが多いか」という質問に対し、運の良い人は5段階評価で4.2、悪い人は3.2でした。
コリン・パウエルのルール5条「選択に細心の注意を払え。思わぬ結果になることもあるので注意すべし」
〇法則3 幸運を期待する
運が良い人とは自分の夢や目標を実現することが多い人と言い換えても良いでしょう。その人たちの特性は、幸運が将来も持続すると期待している、つまりは根本的に楽観的であるということです。
「自分には将来良いことが起きるとほぼ期待していますか」との質問の答えは、良い人3.7,悪い人2.8でした。さらに、「成功する可能性が小さくても手に入れたいものを求め挑戦しますか」の質問には、良い人が4.0,悪い人が3.3でした。
コリン・パウエルのルールの13条に「楽観的であれば、力は倍増する」とあります。
〇法則4 不運を幸運に変える
どんな運の良い人でも、不運やマイナスの出来事に遭遇します。運の良い人は、不思議だとも思える方法で不運をすばらしい幸運に変えてきていることがワイズマン博士の調査で分かりました。
その時に、運の良い人はどんな考え方をするのか。「不運な出来事も長い目で見れば、成功の結果になる」と思うのです。「そう考えるか」の設問に対し、運の良い人は4.2,悪い人は2・1でした。
コリン・パウエルのルール第一条。「何事に思うほどには悪くない。翌朝には状況が改善しているはずだ」。パウエルはそう考えて、「ものごとは必ず良くなる。自分の力でよくしていける」と行動してゆき、幸運をつかんでいったのです。
〇運のいい人とつきあえ
講演で「愛嬌をよくする方法はわかりますが、運をよくするにはどうしたいいですか」という質問をよく受けます。その時、「運が良い人とつきあうことです」と答えます。
縁尋機妙 多逢聖因 (えんじんきみょう たほうしょういん )と言います。縁尋機妙とは「良い縁がさらに良い縁を尋ねて発展してゆく様は誠に妙(たえ)なるものがある」ということ。多逢聖因とはいい人に交わっていると良い結果に恵まれることを意味します。
謹啓 立冬の候 11月9日、東大で講演させていただきました。銀杏並木はいまだ「黄落」までいかず、緑が残っていました。10月が暖かったせいでしょうか。
〇どんな人間として記憶されたいか
東大出身の30代起業経営者が主宰される「経営参謀塾」をメイン講師としてお手伝いしています。場所は東京学士会館、塾生は少数精鋭で10名程度、半分以上が女性です。私も65歳になりましたが、熱心に学ぼうとする若き経営者たちに囲まれたローマの哲学者キケロの言う「老年の楽しみ」の時間です。
その塾生たちに「君はどんな人間として記憶されたいか」という問いを発しました。この問いは経営学者ピータードラッカーが提唱したものとしてよく知られています。
「私(ドラッカー)が十三歳のとき、宗教の先生が、何によって憶えられたいかねと聞いた。誰も答えられなかった。すると、今答えられると思って聞いたわけではない。でも五〇になっても答えられなければ、人生を無駄に過ごしたことになるよといった」
「今日でも私は、この問い、何によって憶えられたいかを自らに問いかけている。これは、自己刷新を促す問いである。自分自身を若干違う人間として、しかしなりうる人間として見るよう、仕向けてくれる問いである」(ドラッカー名著集『非営利組織の経営』)
ときどき取り上げる「経済発展の理論」、「イノベーション」で知られる経済学者シュンペーター。著書「経済発展の理論」で有名になった30代の時、「自分が何によって記憶されたいか」との質問に「ヨーロッパ一の美人を愛人にし、ヨーロッパ一の馬術家として知られ、そしておそらくは世界一の経済学者として記憶されたい」と言っていました。
この言葉は個人生活の目標、趣味の目標、仕事の目標を簡潔に表現しており、人生戦略として見事です。日本人ですと、「どんな人間として記憶されたいか」と聞くと、「仕事の目標」だけになってしまいます。個人生活、趣味、仕事のバランスをとるためにもそれぞれの目標を持ちたいものです。
〇シュンペーターとドラッカーの父
シュンペーターとドラッカーのお父さん。アドルフ(大蔵省の官僚で、後に経済学の教授)は知り合いでした。1950年1月3日、ハーバード大学で教え、世界的に有名になっていたシュンペーター(66歳)をアドルフ(76歳)とドラッカー自身が訪問しました。
アドルフはシュンペーターに尋ねました。「ジョセフ(シュンペーター)、自分が何によって覚えられたいか、今でも考えることはあるかね」シュンペーターは大きな声で笑い、ドラッカーも笑いました。
シュンペーターが答えます。「その質問は今でも、私にとってとても大切だ。でも、若いころからは考えが変わった。今は一人でも多く、優秀で熱意溢れる学生を一流の経済学者として育てた教師として知られたいと思っている」
すこし怪訝な顔をしたアドルフに対し、シュンペーターは答えました。
「アドルフ、私も本や理論で記憶に残るだけでは満足できない年になった。(教育)で人を変えることができなかったら、何も変えたことにならない。(教育で)人を変えることができたら、私の思いは永遠に続いてゆく」
シュンペーターはその5日後に亡くなりました。
この話を若き日に読んだ私は3つの教訓を得ました。第一は、「何によって知られたいか」という問いは毎年、なされなければならないということ。私は、1月3日に常にこの問いを自分に投げかけます。
第二は、人生の発展段階によって、この問いに対する答えは変わり、発展していかなくてはいけないということです。参謀塾での私の問いに対して答えた企業家たちには、今後成長につれて「志高い」ものに発展していってほしいとのコメントを残しました。
第三は、教育で人を変えることは「記憶される」にふさわしいことだということです。
〇「参謀」として記憶されたい
私自身も若い時から、「自分はどんな人間として記憶されたいか」を考えてきました。故郷が関ケ原に近く、以前にも書きましたが、祖先が石田三成の参謀であった嶋左近と関係あり(?)という伝承があったので、「天下を狙う人の参謀」として記憶されたいという思いを持ちました。
11月1日の毎日新聞経済プレミアに「崖っぷちから強くなる? 孫正義氏の元参謀に聞く」という記事が書かれ、私のことが「話を聞いたのは、「孫正義の参謀」と呼ばれた嶋聡・元社長室長だ。松下政経塾出身で国会議員から05年にソフトバンクの社長室長に転じた。孫氏の側近として経営を支え、15年に顧問を退任し同社を離れた」と紹介されています。若き日の思いが少しは実現したのかなと思っています。
https://mainichi.jp/premier/business/articles/20231030/biz/00m/020/007000c
38歳から47歳まで衆議院議員。48歳から57歳まで、ソフトバンク社長室長として「孫正義の参謀」。58歳から現在の65歳まで社外取締役、顧問として若い経営者に助言をしています。また、57歳から始めた講演はいままでに全国、海外を含め400回を超えています。
政治家、経営者、教育者として三人分の「生」を生きた気がしております。
来年は私もシュンペーターが「一人でも多く、優秀で熱意溢れる学生を一流の経済学者として育てた教師として知られたいと思っている」と語った66歳になります。今、縁あって助言をしている若手経営者、起業家の中から日本経済を復活させるような人物が出て、「その人を育てた教育者」として記憶されたいと願っております。
2023年も残り少なくなってきました。皆さんも、ぜひ「自分はどんな人間として記憶されたいか」を考えてみていただきたいと思います。謹白
〇奇跡は再び起きるか
中部ニュービジネス協議会に講演にお招きいただき、政治家時代の地元である、愛知県名古屋に行ってきました。会場は、トヨタ名古屋本社のあるミッドランドスクエア。日本の繁栄を引っ張りながら、EVの波に乗り遅れ、100年に一度の大変革のさなかにあるトヨタ。その本社ビルでニュービジネスの話をするということで力を入れて講演させていただきました。
それに先立つ10月6日、岸田首相も出席し、首相官邸で開かれた海外投資家へのラウンドテーブル。ブラックロック(米資産運用大手)のCEOラリー・フィンク氏は「歴史は繰り返す。日本は経済変貌の途上にある。1980年代に日本は奇跡を起こした。今、起きつつある奇跡はもっと続くだろう」と日本が再び奇跡を起こすという予測を述べました。現に、ブラックロックは日本への投資を増やしています。
日本に奇跡が起きる原因としてラリー・フィンク氏があげたのは「スタートアップをめざす若い世代が増えてきた」ということです。
80年代の奇跡は大量消費と終身雇用が見事にかみ合って起きました。トヨタや松下幸之助の終身雇用を重視する日本的経営が世界から注目されました。その成功が、かえって足かせとなります。1980年代に革新的な技術やビジネスモデルで従来の企業を打ち破った企業が、大企業になると革新性を失ってしまう状態となるイノベーションのジレンマに陥り、GAFAMに敗北していったというのが1990年代からの日本の30年です。
ブラックロックのCEOによると、その空気が変わってきたというのです。変われない大企業より、若い企業の方が成長し、自己実現できるという若い世代が増えてきたというのが、ラリー・フィンク氏の見解。まさにニュービジネスの時代と言えるでしょう。
〇イノベーションは「技術革新」だけでない
オーストリア生まれのハーバード大学教授、シュンペーターは著書「経済発展の理論」の中で「イノベーション」という言葉を使い、イノベーションの始祖として知られています。日本では1958年の経済白書でイノベーションを「技術革新」と訳したので、技術重視と思われ、それが定着しています。
しかし、シュンペーターの言うイノベーションは「新結合」を意味します。シュンペーターは具体的に以下の5つをあげました。1,新商品の開発 2,新しい生産方法の開発 3,新市場や新しい販売先の開発 4,原料などの新たな供給源の獲得 5、独占の打破など新しい組織の開発の5つです。
つまり、イノベーションは技術だけでなく、社会を変えたいという企業家の「思い」を製品、サービス、ビジネスモデルにより、現実化してゆくことなのです。
たとえば、ヤマト運輸の宅急便などは郵便小包、国鉄小荷物の「独占の打破」でしたし、ソフトバンクの情報通信産業への参入も電電公社(NTTの前身)の「独占の打破」でした。
新結合を具体的に見ると、アマゾンは昔からあった通販をインターネットに結合したものです。サイバーエージェントのネット広告は、昔からあったテレビ広告をインターネットと結合したものとなります。 ウーバーも、昔からあったタクシーの配車システムをAIに新結合したものと言えましょう。
〇インターネット革命のようなAI革命が起きる
ニュービジネスは既存産業と新しい技術との「新結合」で生まれます。これからは既存産業とAIとの新結合にビジネスチャンスがあります。
アメリカで起きていることは何年か経って日本で起きます。今、アメリカではAI革命の兆しを感じた若者が大学を中退して起業することが多くなってきました。
マイクロソフトのビル・ゲイツも、アップルのスティーブ・ジョブズもメタのマーク・ザッカーバーグも大学を中退しています。
孫正義が大きく飛躍したインターネット革命前夜と同じような息吹がアメリカに生じています。
「チャットGPT」や「Bard(バード)」の登場で、会話ができ、役に立つAIが実現しました。それは投資ラッシュをもたらし、タスクを自動化して仕事を変革する新しい企業を次々と生み出しています。米国のスタートアップ投資は、その25%以上がAI企業に集まっています。
チャットGPTのような生成AIツールは、起業家のハードルをいくつか取り除きました。例えば、今の創業者はアルゴリズムを開発するのにAIを使えます。以前なら優秀なエンジニアのチームが必要でした。それがいらないのです。
岸田総理のブレーンの一人に聞いたのですが、岸田総理自身、AIを使ってアルゴリズムを開発できるのだそうです。若い起業家なら絶対できるでしょう。
生成AIアプリケーションの市場規模は企業向けAIだけで今年430億ドル(約6兆4400億円)に上ります。市場規模の大きさと開発ペースの速さから、米国の若い創業者たちは授業をさぼってこの世界に飛び込んでいます。まさに、「スピード、スピード、スピード」の世界です。いずれ、日本もそうなるでしょう。
ただし、大学をやめたいと私に相談する人には、お会いしたことのあるマイクロソフトの創業者、ビル・ゲイツの言葉を紹介しています。
「時々、大学をやめて起業しようかなと悩んでいる学生さんに会う。そんなときには、具体的に仕事が忙しくなって、今は大学に行っている場合じゃないとなったら、中退しなさい。私がアレンとマイクロソフトを創業して、ハーバード大学を中退した時がそうだった。
そうでなくて漠然と起業にあこがれているだけだったら、大学に通ったほうがいいよとアドバイスする」
〇日本全体が、「イノベーションの罠」に陥っている
京都に行ったときのことです。オーバーツーリズムの京都はタクシーがつかまりにくくなっています。そこで、妻が「ウーバータクシー」のアプリで使ってみました。これが、大変便利でした。
嵯峨野からの帰り、円町という駅前からホテルまでをお願いしたところ、「10分で着きます」との返事がすぐに来ました。さらに、「後5分で着く」、「3分で着く」という知らせがあり、安心して待つことができました。待ち時間の5分で近くのコンビニで買い物をすることもできました。
運転手さんによると、私たちの宿泊ホテルまで行くと、すぐに次の予約が近くにあると知らされ、一本のルートができており、稼働率も上がるのでありがたいとのこと。さらに、料金もアプリ決済で、面倒なことなく、そのままホテルに入りました。
ウーバータクシーは日本以外の32カ国でも提供されています。ただ、日本と違い、ライドシェアと両輪でという国がほとんどです。きっとライドシェアも使ってみると大変便利なのでしょう。
もちろん、他国もすんなりライドシェアを受け入れてきはいません。アメリカやイギリスでもタクシー業界の反発はもちろん、乗客の安全や運転手の身分保障への懸念が渦巻き、産業界や規制当局が衝突してきました。
ただ、日本と違うのは、ライドシェアを拒むのではなく、どうすれば信頼できる交通システムとして社会に埋め込めるか、その道筋を探るために立法や行政が動いたことです。
ウーバーの本拠地があるカリフォルニア州では2013年にTNC(トランスポーテーション・ネットワーク・カンパニー)というタクシーとは別の制度を設け、ライドシェア事業者を規制し、安心を与える体制をつくりました。
「ブラックキャブ」で有名なロンドンではPHV(プライベート・ハイヤー・ビークル)という免許を応用し、ウーバーなどの安全性に目を光らすと同時に、共存を目指しています。
イノベーションによって、将来現れる世の中がどうなるかという構想力をもって、それが現在の法律とGAPがあるなら、それを埋めようとする姿勢が日本にはありません。四次元的に考える能力が政治家にも官僚にもないのです。
時代に合わせて法律を変えるのでなく、時代を法律に合わせようとするのでは、イノベーションは発展しません。
日本はそこそこ繁栄し、安全で安心な国となりました。それゆえに、法律も行政システムも「時代に先駆ける事業=違法=悪」という観念が強くなりすぎています。結果として、現状維持勢力が強くなりすぎました。日本全体が「イノベーションの罠」に陥っているのです。
〇第二の松下幸之助、孫正義を
起業し、上場した経営者たちと話していたら、「このところライドシェア、タクシーの規制緩和、自動運転の推進など、私たちの主張を政治が聞くようになった」と喜んでいました。イノベーションの罠を脱するために政治も頑張ってほしいと思います。
日本のGDPがドイツに抜かれ、世界第4位になるというニュースが流れました。日本は衰亡してゆくという予感を誰もがもたれたでしょう。しかし、世界の歴史を見ると、衰亡は一直線ではありません。1980年代の奇跡がもう一度起きると信じたいと思います。
天下一人以て興ると言います。私の講演は以下の言葉で結ばれました。
「今日、私の講演を聞いていただいた皆さんの中から第二の松下幸之助、第二の孫正義が生まれることを期待いたします」
冨山に本社をおくI社に講演にお招きいただき行ってまいりました。冨山に行くと、井上陽水が「夏が過ぎ風あざみ」と歌った「少年時代」を思い出します。昭和19年の冨山を舞台にしたのが映画「少年時代」。爽秋の空に立山連峰が見えました。
I社は、来年創業60年を迎えられるそうです。人間で言えば還暦。日本は世界一百年企業が多いところですが、是非100年、200年と続く長寿企業を目指していただきたいと思います。松下幸之助は250年続く企業を、孫正義は300年続く企業を創りたいと宣言しました。
〇戦国で「義将」を貫いた、上杉謙信
冨山への途上、上杉謙信と武田謙信が対峙した古戦場によろうと千曲川(信濃川)沿いにある飯山城跡に寄りました。秋霖の城跡からは千曲川の流れが見えました。
「鞭声粛粛 夜河を過る
曉に見る千兵の 大牙を擁するを
遺恨なり十年 一剣を磨き
流星光底 長蛇を逸す」
私の「少年時代」、この詩をテレビ番組(大河ドラマ 天と地と)で聞き、漢詩に興味を持つようになりました。明治維新に影響を与えた頼山陽が川中島の戦いをうたったものです。一剣を磨き、敵の本陣に迫るのは上杉謙信。ドラマでは石坂浩二が演じていました。逃がした「長蛇」は武田信玄です。
上杉謙信と武田信玄を政治家、あるいは経営者トップとして見ると甲乙つけがたいものがあります。孫子を学び、「風林火山」を旗印にした武田信玄。「人は城、人は石垣」とした領内経営も見事です。
ただ、私は戦には強い反面、情誼に篤く、信仰心も深く、敵に塩を送りトップの在り方の美学を突き詰めた生き方をした謙信に人間的魅力を感じます。戦国時代において「義」を決断と行動の基準にし、「義将」と呼ばれたのです。
飯山城までタクシーをお願いしたのですが、運転手さんが「この辺は皆、上杉謙信が好きですよ」と言っていたのが印象的でした。
〇滅びた武田家、明治維新まで続いた上杉家
武田信玄と上杉謙信がどちらがというのは難しいですが、その後継者、さらに組織としての武田家、上杉家は大きな差が出ます。武田家は信玄亡き後(1573)、武田勝頼が三河長篠で織田、徳川連合軍に敗れます(1575)。そして、7年後の1582年、滅亡します。
謙信は信玄に遅れる事5年、1578年に逝去します。「四十九年、一睡の夢一期の栄華一杯の酒」というのが辞世でした。波乱の生涯を「一」の字で総括しているのが素晴らしいと思います。
謙信の後継者上杉景勝は、謙信の「義」を上杉家の経営理念として継承し強力にします。豊臣秀吉が死に、徳川優勢の世の中になっても「義」を重んじます。天下分け目の関ケ原は家康の専横に立腹した景勝が、家康の上洛要請を拒否して会津に自立したことに始まります。
関ケ原の合戦で最も激しく対立した上杉家でしたが、家臣の結束は「義」で崩れず、徳川幕府も一目も二目もおかずにおられませんでした。30万石への減封となり、さらに後に15万石になりましたが、関ケ原の合戦で徳川に味方して巨封を得た大名が次々とつぶされる中、明治維新まで生き残ったのです。これは、謙信以来の経営理念、「義を重んじる」を保ち続けたからだと思います。
〇10万石外様大名、関ケ原44家、幕末まで22家
江戸時代は約260年。関ケ原の戦いを潜り抜け、明治維新まで続けば、藩の組織としては260年以上続いたことになります。
関ケ原の戦いの時、徳川関係者以外の10万石以上の大名は44家ありました。10万石というと、二郡から三郡以上の領地を持ち、戦の時動員可能人数は3000人以上あります。大企業と言ってよいでしょう。このうち、石田三成、宇喜多秀家など十三家が所領を没収され、消えました。
関ケ原の戦いで加増され10万石を超えたものは、築城の名手藤堂高虎、「功名が辻」の山内一豊、真田幸村の兄真田信之ら8人。差し引き、4家減りました。40家が残ったことになります。
この40家のうち、明治維新まで残ったのは22家。約半分が滅んだことになります。義を重んじた上杉家は明治維新まで続きます。
〇義より、利を重んじた福島、加藤の末路
慶長5年、関ケ原の戦いが終わった後、寛永年末までの40余年の間に、徳川政権は17家をとりつぶします。それは豊臣恩顧の大名であったにかかわらず、関ケ原で徳川方についたものが多数でした。
関ケ原の戦いのわずか2年後。関ケ原合戦中に裏切り行為をした、勝利の最大功労者備前51万石の小早川秀秋の家を断絶にします。理由は後継ぎがいないということでした。
おなじく、豊臣秀吉の親戚であるにかかわらず、関ケ原の合戦で真っ先に徳川支持を表明した功労者福島正則(広島49万8千石)を、15年後に、居城を無断に修理したという理由で津軽(4万5千石)に、減封。さらに信濃高井2万5千石にされ、正則死後は一切が没収されます。
太閤恩顧の大名、加藤清正も徳川方につき、九州の地で西国に多い豊臣方を牽制しました。その功績で、肥後52万石の大名になります。しかし、1611年、加藤清正が死に、忠弘が跡を継ぐと家臣団の間に対立が生じます。それを徳川幕府に乗じられ、1632年、出羽庄内1万石に減封。本人の死とともに清正以来の加藤家は消えます。
〇利を見ては義を思うべき
小早川秀秋、福島正則、加藤清正とも関ケ原の合戦において太閤の縁者でありながらいち早く徳川方につきました。「義よりも利」を重んじたわけです。
孟子に「上下こもごも利をとれば国危うし」(上も下も利益の追求に走ると国までほろぼしてしまう)とあります。利を重んじ、徳川方についたことで、失望と不満が福島家、加藤家にありました。それが、家中に派閥をつくらせ、家臣の対立が生じます。何よりも文化が「義より利」になったのでしょう。そこを徳川幕府につかれました。
孔子は「利をみては義を思う」といいました。当然、利益は追及しなければなりません。しかし、利益を追求するときにも「義」をふみはずさないようにすべきということです。そうあってこそ、家臣もついてくるし、上杉家のように、苦しくても、明治維新まで続く組織となります。飯山城から千曲川の流れを見ながら、企業経営も「義」を重んじることが、250年企業、300年企業につながるのだと改めて思いました。
9月初め、久しぶりに姫路城に行きました。姫路城は秀吉の大参謀、黒田官兵衛が1546年に生まれた城です。10年前、NHK大河ドラマで「軍師官兵衛」が放映されました。その頃、東京に住んでおり、テレビ、ラジオに良く出演させていただきました。そのとき、私のことを「平成の黒田官兵衛」と紹介され、結構気に入っていました(笑)
〇秀吉に天下をとらせた軍師官兵衛
1580年、秀吉が織田信長から毛利、中国攻めを命じられ司令官になったとき、織田方に加勢することを決めていた官兵衛は秀吉に姫路城を惜しげもなく、献上してしまいます。織田につくと決めた以上、すべて賭けるとした官兵衛の思い切りの良さに感心します。
播磨、現在の兵庫県を平定した秀吉は1582(天正10)年、毛利を討つために中国地方へと出発します。攻めるは備中・高松城(岡山県)。しかし、この城は「中国一の名城」であり、容易に攻め落とすことができません。軍師官兵衛は前代未聞の「水攻め」を進言。石を積んだ船を沈めて川をせき止め、高松城全体を湖に浮かぶ孤城とさせます。
この水攻めの最中の6月2日、本能寺(京都府)で織田信長が明智光秀に討たれます。半兵衛は「信長死す」の情報を敵対する毛利より早く入手します。
織田信長暗殺という報で、茫然自失の秀吉の膝を静かにたたき「さてさて天の加護を得させ給ひ、もはや御心のままになりたり」となぞのようなことを言います。
さすがに、秀吉は「織田信長の仇討ちをしたものこそ、次の天下にいちばん近い者となるということだな」と理解します。官兵衛は毛利と講話をすすめます。秀吉軍は6日に撤兵、7日に「姫路城」に到着。姫路で秀吉に追いついた官兵衛は池田恒興や高山右近を陣営に加えます。13日が天下分け目の「山崎の戦い」。秀吉軍がこんなに早く帰れるはずがないと考えていた明智光秀を破ります。
これが「中国大返し」。当時としては奇跡の6日で230キロを駆け抜け、「かたき討ち」を果たしたのです。これを可能にしたのが軍師官兵衛でした。官兵衛は「秀吉に天下をとらせた男」と言われます。
〇半兵衛と官兵衛、参謀を重視した豊臣秀吉
日本市場最大の急成長組織とはなんといっても豊臣秀吉カンパニーです。もともと尾張中村郷の「サル」が三十数年で「天下の主」になったのですから。世界史を見ても、これに匹敵するほどの大成長は、漢の高祖、劉邦、モンゴルのジンギスカン、明の太祖朱元璋、フランスのナポレオンぐらいでしょうか。
私はこの急成長の秘密は、秀吉が「参謀」の重要性を知り、スタッフの機能を「補佐役」と「参謀」に分けたことにあると思っています。
この豊臣秀吉カンパニーは織田信長カンパニーの一事業部から始まり、近江坂本城主となったことで、有力グループ会社社長となり、本能寺の変後、織田信長カンパニーのトップとなり、秀吉カンパニーにみごとに変貌させ、天下を統一します。
創業期の秀吉カンパニーは成長に合わせて組織の原理と機能を変化させ、それにふさわしい人材を導入し、活用していきます。特に重要なのは、事業部から会社社長になる過程で参謀を重視し、補佐役と参謀を峻別したことです。
当初、豊臣事業部のナンバー2は弟の秀長でした。秀長は、ある時はトップの相談役、つまりは参謀となり、ある時はナンバー2として軍団を率い、ある時は補佐役として食料、軍資金の調達、さらには武将たちの調整などをする「何でも屋」でした。それでいて、兄をたて、表にはたたずナンバー2に徹します。中小企業によくいる、親族の、副社長、専務に似ています。
ただ、このままではナンバー2は日ごろの雑事に追われ、参謀の任務である大きな戦略構想を描くことはできません。日本のベンチャー、中小企業にもよくあるパターンです。
秀吉は「三国志」の劉備玄徳が軍師孔明を「三顧の礼」で迎え、「天下三分の計」を進言され、大きく飛躍したことを知っていたのでしょう。美濃岩手に隠棲しているインテリ「竹中半兵衛」を軍師として迎えます。
竹中半兵衛は見事に期待に応えます。参謀と補佐役がわかれ、戦略的に行動できるようになった秀吉は、近江の浅井氏を滅亡させ、天正元年(1573)近江長浜12万石の大名となります。織田信長カンパニーの有力会社の社長になったようなものです。秀吉、37歳の時でした。
竹中半兵衛は1579年、三木城攻めの時に36歳で没します。その後を継いだのが黒田官兵衛。秀吉陣営は竹中半兵衛の働きで「軍師」「参謀」の重要性が理解されていました。
官兵衛は「参謀」として大きな視点で行動、見事に期待に応え、1582年、3年で秀吉を天下人に押上げます。時に秀吉46歳。黒田官兵衛36歳でした。
松下幸之助は、「大将と軍師を兼ねてはいけない。軍師を使えば、大将は大きい仕事ができる」と言いました。豊臣秀吉は、参謀、軍師を使い、大きな仕事をしたと言えましょう。
2005年秋、私は衆議院議員からソフトバンク社長室長に転じました。その時、当時の人事部長が「孫社長からは嶋さんに細かいことをさせてはいけない。嶋さんに期待するのは大きい視点で仕事をしてもらうことだといわれています」と私に伝えました。私が人生意気に感じ、「参謀」として戦略構想を描き、行動したことはいうまでもありません。
〇劉邦に見る天下取りの極意
松下幸之助は、著書「指導者の条件」の中で、「黒田如水(官兵衛)と言えば、昔の中国の張良という名軍師にも比せられた智将」と書いています。
張良は、漢の高祖、劉邦の軍師です。私が座右の書とする兵書「六韜三略」は張良ゆかりのものです。劉邦は項羽と争い、最初は負けてばかりいましたが、最後は張良の進言もあり、天下を取ります。
劉邦がどうして天下をとれたかを訪ねられた時、こう答えました。
「帷幕のうちに策をめぐらせて勝ちを千里の外に決することにおいては、私は張良には及ばない。国を整え、糧道を絶やさぬことにおいては自分は蕭何に及ばない。戦って必ず勝つという点では自分は韓信に及ばない。だが私は三人の人傑をよく用いることができた」
「戦えば必ず勝つ」というのは軍司令官。いわばラインの長です。「帷幕のうちで策を練る」というのは、「参謀」、つまりスタッフの役割です。そして、「国を整え、食料を絶やさない」というのは、まさにこれもスタッフ、「補佐役」の仕事です。
劉邦は、そのそれぞれについて最良の人材を得、適材適所に配して使いこなしました。そして、成長には大変重要なスタッフの中で「参謀」と「補佐役」を峻別することの重要性を知っており、実践したのです。
ある程度、成長を果たし、今ひとつ飛躍できない会社の経営者は是非とも参謀と補佐役を峻別し、良き参謀を探し使いこなすことを。スタッフ部門で働いている人は、自分が「参謀」か「補佐役」のどちらに向いているかをよく考えてみてください。
「軍師官兵衛」はNHKオンデマンドでまた視聴可能になりました。23回から30回を中心に、もう一度見ていただくことをおススメいたします。
いつのまにか、庭の木のセミの声が聞けなくなり、湘南海岸にはアキアカネが飛んでます。海岸を歩くと松下政経塾で過ごした青春時代を思い出します。サザンオールスターズの歌が流行っていました。
「あの頃の思い出がありこの夏も口ずさんでる『サザン』の歌を」
〇時価総額ベスト10企業が孫さん以来出ていない
8月21日からの1週間は夏休み明けということもあり、プライム市場の企業2つと上場を目指す企業2つの取締役会が行われました。社外取締役としては、議案を読み込むことは当然ですが、議案に関する世界の動向や事業報告に対する分析のために過去の数字トレンドを参考にすることもあり、時間を要します。
取締役会の中で、私と同じく社外取締役を務める四十代の経営者から興味深い発言がありました。「なぜ日本の起業家たちは30代や40代で上場し、数十億や数百億ほどの企業を創業して満足してしまうのか。日本の時価総額ベス10には、孫正義さん以来の企業が出ていない。残念だ」という趣旨の発言でした。この方も自身が上場を果たしており、政府の役職も務めており、若手経営者のリーダーの一人として非常に頼りにされている方なので大変頼もしく思いました。
現在の日本企業の時価総額トップはトヨタの39兆円です。2位はソニーの約15兆円、3位NTTも同じく約15兆円です。6位には柳井社長のファストリが10兆円、9位にはソフトバンクグループが9.6兆円となっています。
孫正義社長に続く21世紀の上場企業家としては、楽天の三木谷さんが1.1兆円で146位に位置しています。また、サイバーエージェントの藤田さんは4560億円で200位圏外になっています。確かに、「孫さん以来」の時価総額ベスト10に入るほどの大規模な経営者が登場していないのは事実です。
〇リーダーよ、大志を抱け
「少年よ大志を抱け」という言葉は札幌農学校の教頭、クラーク博士によって広く知られています。クラーク氏は教頭職にわずか8カ月間しか在任しませんでしたが、その間に内村鑑三や5000円札の新渡戸稲造など、偉大な教育者が輩出されました。
松下幸之助は、志は大きく持つべきだと考えており、「棒ほどの願い事を持ち、針ほどの願い事がかなう」と述べています。志を高く掲げ、大きな目標を抱くことで、一定の成果を得ることができるとの信念を持っています。逆に、最初から志を小さくし、目標を低く設定してしまうと、成功する可能性が低くなるとも述べています。マキャベリも彼の「君主論」の中で同様の考えを示しており、「遠くの的を射るためには、高い目標を設定すべきだ」と述べています。この考え方は興味深いものです。
例えば、楽天を創業した三木谷氏は1999年に創業し、現在は58歳です。一方、Amazonは1994年に創業されました。ジェフ・ベゾスは現在59歳であり、世界一の大富豪として知られています。サイバーエージェントの藤田氏は1998年に創業し、2000年3月には最年少社長として東証マザーズに上場しました。現在は50歳です。テスラは2003年に創業され、時価総額でトヨタを抜いている企業です。創業者のイーロン・マスクも世界一の大富豪として名高いですが、年齢は52歳です。
こうした事例を見ると、成功したとはいえ、規模の圧倒的な差はどこから生じるのでしょうか。おそらく、ジェフ・ベゾスやイーロン・マスクは創業当初から世界的な視野を持ち、大きな志を抱いていたのでしょう。一方で、三木谷氏や藤田氏は最初から日本市場にのみ焦点を当て、世界的な展望を持っていなかった可能性があります。つまり、志が低かったのです。
〇30年前の世界一の大富豪は理論重視の日本人」
30年前の1993年、世界一の大富豪は日本人でした。当時、西武鉄道グループの総帥である堤義明氏がその座に就いていました。フォーブスが1987年に初めて世界長者番付を発表した際にも堤義明氏が1位であり、1995年までの8年間のうち6回1位に輝いていました。これは日本の不動産バブルが影響を与えた結果ですが、何はともあれ、当時日本人が世界一の大富豪であったのです。
実は私自身、20代後半の頃、松下政経塾から派遣され、堤義明氏のもとで2年間の修業を経験しました。松下幸之助塾長、堤義明オーナー、そして私との三者会談によってその修業が決まったという経緯であり、今振り返るとたいへんありがたいことでした。修業の詳細は別の機会に述べることにして、その中で覚えていることの一つは、堤義明氏が「理論」を重視していたことです。
「私にとって決断の基準は純粋な理論です。経営は純粋理論どおりにいかないと言われることもありますが、トップは不安や疑念を乗り越えて決断しなければなりません。そのため私は、純粋な理論的なアプローチを取ることを心掛けています」
最近、リゾート開発業界で注目を浴びている星野リゾートの星野佳路社長は「私はこれまでの経験から、(経営)教科書に書かれた内容が正しいことであり、実際の経営で役立つことを実感しています。(経営)教科書から学んだ理論に基づく判断によって、経営上のリスクを大幅に軽減できると考えています」と述べ、マイケル・ポーターの「競争の戦略」やフィリップ・コトラーの「マーケティング・マネジメント」などを推奨しています。
「囲碁や将棋のように、経営にも定石が存在する。教科書にはその定石が記載されています。無知のまま経営するか、定石を知識として持って経営するかによって、正しい判断を行う確率に違いが生じる」と述べています。さらに、星野氏は教科書の経営理論が大企業にのみ適用されると考えられることもあるかもしれませんが、「小さな企業ほど、(経営)教科書通りのアプローチが意味を持つ」と断言しています。
〇「呉下の阿蒙にあらず」となれ
私は日本である程度成功した起業家と話す機会が多いです。皆、魅力的で営業力は非常に優れています。しかし、成長を促すためのM&Aのファイナンス知識や、国際展開のための経営理論、いわゆる「兵法」「定石」に関する知識は極めて薄いです。これがアメリカのMBAを修了した経営者との大きな違いです。日本の経営者は、若い頃に営業に忙殺されており、「兵法」「定石」を学ぶ時間を割くことが少ないのです。
ときどき、メルマガで取り上げる韓国の財閥グループの30代後継者たちは、多くがハーバードやスタンフォードでMBAを取得しており、経営戦略の「兵法」「定石」を完全にマスターしています。論理が共通の言語となっているため、私との会話でも結論を早く導き出すことができます。
正史『三国志』には「呉下の阿蒙にあらず。 士別れて三日ならば、即ち更に刮目して相待つべし。」という名文があります。
「呉下の阿蒙」とは呉の将軍、呂蒙の若いころのことで、勇猛でしたが、学問を持っておらず、兵法、定石を勉強していなかったことを意味します。優れた営業力のみの若手リーダーと言えるでしょう。
あるとき、彼の主君である孫権は彼に学問を勧めました。しかし、呂蒙は「軍務が忙しくて学ぶ時間がない」と言います。理論など不要と思ったのでしょう。
孫権は彼に助言します。「あなたは聡明で理解力もあります。学ぶことで得るものがあるに違いありません。急いで『孫子』や『六韜』、『左伝』、そして三史(『史記』、『漢書』、『東観漢記』)を読んでみることをお勧めします。漢の光武帝は、軍務の合間にも書物を手放すことはありませんでした。また、(三国志でのライバル)孟徳曹操も年を重ねるごとに学問に情熱を傾けるようになったと言っています。あなた方だけが、どうして学問に努力しないのでしょうか」
赤壁の戦いの後、周瑜が亡くなると後任の魯粛と呂蒙が対面しました。魯粛は呂蒙を無学者とみなしていましたが、猛勉強によって成長した呂蒙の見識の深さに驚かされました。
魯粛は「呉下の阿蒙に非ず」と述べました。すなわち、呂蒙はもはや無学な若者ではないということです。呂蒙は兵法を巧みに駆使し、関羽の軍隊を崩壊させ、関羽を捕虜とする大勝利を収めました。
成功を収めた若手経営者には、経営の「兵法」「定石」を学んでほしいと心から願っています。また、ベテランの経営者やビジネスマンは、自身の経験を理論化し、「兵法」「定石」として若手に伝えていくことが大切だと考えます。私自身も松下幸之助や孫正義から学んだ教訓を「兵法」「定石」として、若手経営者に伝え、彼らの飛躍に貢献したいと思っています。私の願いは、自身が関わる企業や若手経営者が将来的には日本の時価総額ベスト10に入ることです。クラーク博士が「少年よ大志を抱け」と言いましたが、私は「老年も大志を抱いていい」と信じています。
謹啓 立秋の候
この夏休みは上高地と軽井沢で過ごしました。上高地は以前一度行ったことがありますが、その際は雲多く、穂高連山と梓川が織りなす絶景を楽しむことができませんでした。
今回は、宿泊先を上高地帝国ホテルにしました。最初はピークシーズンのため、ベランダのない部屋しか取れませんでしたが、台風6号が迷走し、天候が不安定な予報だったため、キャンセルが出ました。その結果、穂高連山を一望できるベランダのついた素晴らしい部屋を確保することができました。
さらに、後に台風の進路が変わり、滞在中の3日間とも予報が良い方にはずれ見事な青空でした。穂高連山だけでなく、夜にはまるで宝石が散りばめられたような星空も楽しむことができました。「私は運が良い」を再確認しました(笑)。
朝の気温は10時で21度と快適でしたので、ベランダに座って、北杜夫氏の「どくとるマンボウ青春期」を読み、若き日々を思い出して過ごしました。
〇百年の計は人を植うるに如かず
現在、私は青春時代を過ごした松下政経塾の近くにある湘南に住んでいます。松下政経塾の最終試験である三次試験、松下幸之助の面接の基準は「運」と「愛嬌」であることはよくご存じと思います。
その前の二次試験。私の面接官は、2023年6月13日にご逝去された経済同友会の元代表幹事、牛尾治郎さんでした。数々の質問がありましたが、特に「日本の繁栄には何が必要と思いますか」という趣旨の質問が出されました。牛尾さんは日本青年会議所の会頭も務め、若手財界人の論客として既に有名でした。その牛尾さんに対して、生半可な経済理論を振り回しても通用しないと考えました。
即座に出た答えは、「中国の菅子に『一年の計は穀を植うるに如かず、十年の計は木を植うるに如かず、百年の計は人を植うるに如かず』とあります。百年の視点で見て、松下幸之助塾長が語られたようなアジアの時代を担う人材を教育・育成することが重要です。松下政経塾はまさにその修業の場であると信じ、今回私は志願させていただきました」というものでした。
この回答が適切だったのかどうかはわかりませんが、私は松下政経塾に合格しました。牛尾さんは私が衆議院議員になった後も、ソフトバンク社長室長時代も度々ご指導をいただきました。新盆の時期にあたり、安らかにお眠りいただくことを祈りつつ、これからも日本の未来を見守っていただきたいと願っております。
〇700万本の落葉松植林による軽井沢の風景
多くの人々が訪れるようになった旧軽井沢銀座は、今や原宿のような賑わいです。私はその喧騒から離れ、少し離れた場所に滞在します。日中は軽井沢でも30度を超えることもありますが、朝や夕方の涼しい風は格別であり、散歩を頻繁に楽しんでいます。
軽井沢がどこか日本とは異なり、ヨーロッパに似た雰囲気を持つのは、その風景が「カラマツ林」によって造り出されているからだと考えます。北原白秋の詩「落葉松(からまつ)」がその美しさを讃えています。私は散歩中にその詩の第三節を思い出します。「からまつの林の奥も、わが通る道はありけり。霧雨のかかる道なり。山風の通う道なり」
実はこの「カラマツ林」は自然に生まれたものではありません。明治時代、生糸相場などで富を築いた雨宮敬次郎(1846年生、山梨県出身)という実業家が、この地に植林することでその風景が生み出されたのです。彼はなんと700万本もの落葉松を植えたのです。
1876年、生糸相場や蚕糸相場で財を成した30歳の雨宮は、ヨーロッパとアメリカを視察しました。アメリカで不毛な土地がフロンティアスピリットによって開拓され、近代的な農場が築かれる様子を目撃しました。雨宮は軽井沢の地で約1100町歩(おおよそ1100ヘクタール)の土地を所有し、近代的な農場経営を推進しようと考えました。
最初はブドウの栽培に取り組みましたが、失敗に終わりました。次に蕎麦を栽培しましたが、これも限定的な成果にとどまりました。
「私はその時分肺結核で血を吐いていたから、とても長くは生きられないと考えていた。“せめてこの地に自分の墓場を残しておきたい”という精神で開墾を始めた。決して金を儲けて栄華をしたいという考えからではなかった」という当時の思いが残されています。
人生には五計があるといいます。「身計(身の計ごと)」「生計(生きる計ごと)」「家計(家族のありかた)」「老計(いかに老いるか)」の最後の締めくくりとして「死計(いかに死ぬるか)」というものです。雨宮氏はまさに「死計」として軽井沢開墾を考えたのです。
〇死後のための「木の貯蓄」
彼は多くの挫折を経ても諦めず、次に考えたのは「落葉松」の植林でした。開墾に適さない地域を中心に、植林を始めました。「落葉松は檜と杉の中間の素材であり、この土地の気候に適しており、成長も速い。私自身の健康にも良い。毎年30万、40万本ずつ植え、その結果700万本に達した。私は金銭の貯蓄ではなく、木の貯蓄をしている。生前のためではなく、死後のために貯蓄を行っているのだ」と語りました。
この700万本の植林が、軽井沢の日本とは異なるヨーロッパのような風景を作り上げ、軽井沢に多くの人々を惹きつけているのです。雨宮の「死計」は見事に達成されたと言えるでしょう。
国の造林奨励もあいまって、敬次郎の落葉松林は事業としても大きな成功を収めました。その結果、長野県内著名森林19選に選ばれるまでに至りました。また、雨宮氏自身も植林事業が健康に良い影響を与えたのでしょう。彼は64歳という当時としては高齢まで生きることができました。
近年、ESG(環境、社会、ガバナンス)への重要性が高まり、環境に配慮した持続可能な経営をどのように実現するかという議論が盛んに行われています。しかし、中には一時的な姿勢やポーズをとるだけで終わってしまう取り組みも多く見受けられます。もし取り組むなら、将来の展望を見据えた上で、雨宮氏のように後世に残る事業をしてほしいと私は軽井沢を訪れるたびに思うのです。謹白
ロッテに継ぐ韓国第7位の財閥の会社、ハンファソリューション取締役会出席のため、7月26日から29日まで、ソウルに行ってきました。
ソウルも暑かったですが、31度から33度と東京から比べると2-3度低かったようです。宿泊したプラザホテル(ハンファグループ所有)近くの徳寿宮でもミンミンゼミが鳴いていました。韓国の人は、セミの鳴き声を聞き分けれないそうで、「セミはセミ」なのだそうです。日本の文化は四季、自然と共生していますね。
〇3年間の変化・・日本と韓国は一人当たりGDPで同等
ハンファソリューションは太陽光発電のモジュール製造、化学工業をメインとする会社です。アメリカの住宅用モジュールで33.7%のシェアで5年連続1位、商業用モジュールでも17・7%とこれも4年連続1位です。
実は、2020年の4月から取締役となったので、コロナ禍のため会議はすべてオンライン。3年目で初めての対面出席でした。
以前のメルマガで述べた松下幸之助が「韓国は伸びる。君たちは韓国をもっと研究しなくてはいかん」と言われたのが1981年。そのころの一人当たりGDPは日本1万ドル、韓国1883ドルと、日本は韓国の約6倍でした。
この3年で大きく変わったのが一人当たりGDPの日本と韓国の差です。一人当たりのGDPは2020年には日本約4万ドル、韓国約3万2千ドルとまだ差がありました。23年は日本は3万5千ドル、韓国3万3千ドルとなりほぼ同じです。いずれ抜かれるのではないでしょうか、
〇国際政治がテーマの昼食会
ハンファソリューションの経営はグローバルに展開し、ダイナミックです。
本年、アメリカ、ジョージアに、アメリカのインフレ抑制法(IRA)を利用して約3300億円を投資、太陽光発電のモジュール工場を建設します。
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN11E0W0R10C23A1000000/
取締役会後の昼食会。テーマは米中関係がどうなるかでした。中国とアメリカが対立する中で、ヨーロッパ、アメリカのモジュール市場獲得を目指す戦略をとっているのだから当然と言えば当然です。私も自分の見方を披露しましたが、さすがに堅い話が多かったので「ランチ会でこんな難しい話ばかりなのは初めてだ」と言ってしまいました。昼食会、夕食会では政治や宗教の話はタブーというのが私の好きなイギリス方式ですから。
そうしたら、社外取締役の教授が話を変え、「ハンファの野球球団イーグルスは調子いいですが、ソフトバンクホークスは今18連敗ですよね」と言われてしまいました。
なお、韓国の友人に聞いた話では、ハンファグループは、来年にはロッテを抜いて、第6位の財閥になるだろうということでした。
〇時間を買うM&Aをつかう韓国
モジュール製造しているハンファQCELLS工場を見学させていただきました。ほとんどが自動化されていますが、働いている人は平均年齢30代で若く、きびきびしていました。
QCELLSがモジュール事業をスタートしたのは2010年。ゼロからのスタートではなく、中国の企業をM&Aしてのスタートでした。そこで、製造の基礎ノウハウと人材を取得。次に2011年、ドイツの企業をM&A。当時としては先進の技術を手に入れます。まさに、時間を買うM&Aで発展します。
2011年というと福島原子力発電事故をきっかけに再生エネルギーが注目されたころです。2012年7月1日、定価格買い取り制度がスタートした日に、京都市伏見区で「ソフトバン京都ソーラーパーク」で発電開始式が行われました。京セラの稲盛和夫名誉会長、ソフトバンクの孫正義社長が二人とも出席するということで注目されました。
稲盛会長はあいさつで「今から30年前、この伏見という場所で、松下さんとシャープさんと、京セラが主体となってソーラーの研究所を創った。松下さんも撤退した。京セラだけが意地で残り・・大変苦労しながら、20年前に多結晶シリコンによる高性能の太陽電池を世界で初めて完成させた。それを象徴するかのように、今日、同じ伏見の地で、メガソーラー発電を開始できる。私がどんなに感激しているか。感無量です」と言われた。
日本だと「30年という長い年月をかけて」というのは「美談」です。しかし世界を相手にする競争で、それだけでいいのかと思う時もあります。私は若い経営者は「時間を買う」M&A戦略をもっと積極的に活用し、ノウハウを蓄積し、M&Aを特技にすべきであると思います。
〇松下幸之助はM&Aの達人
工場視察でも昼食をいただきました。エレベーターに乗ってきた中年の女性たちの「これから昼ご飯」という嬉しそうな明るい会話が印象的でした。
そこでもM&A戦略について聞いたところ、「どんな方法がいいかよく検討しましたが、M&A戦略をつかうことに決めました」という返事でした。
私からは「松下幸之助は、M&Aの達人でもありました。94歳で亡くなりましたが、そのときのパナソニックの売り上げの半分は買収した企業によるものでした。松下はM&Aによって世界の松下になったのです」との話をしました。
昼食は三交替制だそうで、私は11時からの食事。朝、ホテルでたっぷりの朝食を食べたばかりだったので、美味しそうなものをずいぶん残してしまい、残念と思いながら工場を後にしました。
若い人を中心に、「NOジャパン」が「YESジャパン」になり、「GOジャパン」として日本にたくさんの韓国の人が来ています。
8月17日、米国ワシントンの大統領山荘キャンプデービッドでは日米韓三首脳の会談が開かれます。日韓関係が新しい姿になってゆくことを期待します。
信州・松本に講演のお呼びいただき行ってまいりました。松本は古き良き「旧制高校」を描いた北杜夫の「ドクトルマンボウ青春記」の舞台になったところです。「学都」とも呼ばれ、朝早くから通学を急ぐ制服姿の高校生が爽やかでした。
国宝・松本城まで散歩したところ、堀に天守閣が見事に映っていました。「逆さ富士」ではなく「逆さ城」と言えるかもしれません。
「夏の暁(あけ)お堀に映る逆さ城 古鯉来りて姿を揺らす」
この松本城は、徳川家康の三河時代の家老、石川数正が創建したとされています。大河ドラマ「どうする家康」では、「孤独のグルメ」の松重豊さんが演じています。
〇大敗北・三方ヶ原の戦い、家康は30歳
「どうする家康」の現在の舞台は愛知県の三河地区であり、私の政治家時代の地元なので興味深く見ています。徳川家康は1542年生まれで、織田信長は1534年、豊臣秀吉は1536年の生まれですから、家康は信長の8つ下、秀吉の6つ下です。
信長が桶狭間の戦いで今川義元を討ったのは1560年で、信長は26歳でした。織田信長も、社長急死で、あととりになったものの、古参幹部から見たら、頼りない若社長でした。桶狭間の成功により、信長は一挙に織田家内の実権を握りました。一方、徳川家康はその時18歳であり、高校三年生ということになります。家康はここから人質時代を過ごした今川家の呪縛から離れ、岡崎に戻り、古参家臣から迎えられ、とりあえず徳川会社の跡取りとなります。
歴史ある今川か、勢いのある織田か。悩んだ末、家康は織田信長と盟約・アライアンスを組み、三河を平定したのは1562年家康20歳の時でした。
三河時代には、20歳の若社長を支える両家老がいました。一人が石川数正(東三河組・豊橋)で、1533年生まれの29歳、もう一人が酒井忠次(西三河組・岡崎)で、1527年生まれの35歳です。
それにしても、酒井忠次を演じる大森南朋さんは、ドラマ「ハゲタカ」の怜悧な鷲津義彦の第一印象が強いので、「エビすくい」を踊り、まとめ役を演じている姿に、役者とはここまでキャラクターを変えられるのだといつも感心しています。
家康、最大の大敗北。武田信玄に完膚なきまで叩きのめされた「三方ヶ原の戦い」は1572年、家康30歳の時です。30歳という若さが幸いしたのでしょう。「負けに不思議な負けなし」大敗をしたことで家康は成長します。信長の鉄砲隊が武田勝頼の騎馬隊を破った「長篠の戦い」は1575年で、家康33歳、信長41歳の時です。
そして、1582年、信長が本能寺の変で志半ばで倒れます。家康はちょうど40歳です。大河ドラマ「どうする家康」も7月23日が「本能寺の変」でした。今回のドラマは従来の歴史解釈と違うので、面白く見ています。ここから、アライアンスを解消し、独立した260年続くビジョナリーカンパニー「徳川家」をめざす「家康2.0」がどう描かれるのでしょうか。
〇三河時代の「三備え」
家康の人事戦略の第一は、一人に力を集中させることなく、常に家臣を競い合わせることにあります。創業当時、三河時代の徳川家の組織は「三備え」と言われました。西三河組、東三河組、そして旗本組の三つを意味します。
両家老であった酒井忠治と石川数正をそれぞれ西三河組(岡崎が拠点)、東三河組(吉田、現在の豊橋が拠点)に配しました。事業部制をとり、それぞれにトップを置き、権限と責任を与えたようなものでしょう。
旗本組は旗本先手役と馬廻衆で構成されています。会社で言えば、幹部候補生と秘書役の集まる社長室のようなものでしょう。若手が多く、ベテランを牽制しながら、幹部のサクセッションプランも同時に行っていたと言えます。この「旗本先手役」に本田忠勝と榊原康正が入ります。彼らは家康とともに成長し、家康の天下取りに大いに貢献します。
本田忠勝は「家康に過ぎたるものは二つあり、唐の頭に本多平八」と言わしめた人物です。「ただ勝つ」ために生まれたとされ、生涯で57回の戦いに参戦し、一度も傷を負わなかったと伝えられています。大河ドラマ「どうする家康」では山田裕貴が演じていますが、連ドラ「なつぞら」の幸次郎君の印象が抜けません(笑)。榊原康正は、姉川の戦いなどの活躍ぶりが知られています。
家康が関東に入封されたとき、忠勝は上総大多喜(千葉)で10万石、康正も上野館林(群馬)で10万石を与えられています。二人はライバルでしたが、家康も二人を競い合わせたのでしょう。期待する若い人材に、事業部あるいは子会社を任せて競い合わせるようなものです。
〇徳川四天王の構成の妙
「徳川四天王」と呼ばれるのは、酒井忠治、本田忠勝、榊原康正、そして井伊直正です。石川数正は後に家康から離れてしまい、四天王には含まれません。
「徳川四天王」には見事な構成の妙があります。まず、補佐役であり、まとめ役である酒井忠治。次に皆のロールモデルになってもらいたい若手幹部の本田忠勝と榊原康正。そして、中途採用の星、井伊直正という構成になっています。
本田忠勝と榊原康正はともに1548年生まれで同い年。家康は6歳上です。家康からすれば、目をかけているかわいい後輩というところでしょう。井伊直正は1561年生まれで、酒井忠次とは34歳、忠勝と康正とは13歳の開きがあります。家康の寵童であったと噂されるほど、秀麗でした。
4人のうち、井伊直正だけが異色です。他の三人は三河譜代でしたが、井伊直正は遠江(静岡県)の出身で、元々今川家でした。織田信長が本能寺で倒れた後、家康は甲斐の国の攻略を進めます。北条氏も同じように動いたので、井伊直正は北条と闘いながら、武田の家臣を自分の傘下に納めていきます。武田軍が部隊の装備を赤く揃え、「武田の赤備え」と言われたのも継承し、軍団を赤で統一。「井伊の赤備え」と呼ばれました。これが評価され、関東入封の時は、忠勝、康正よりも多い一二万石をもらいます。
家康は先祖伝来の三河から関東に移転し、新規人材を採用しなくてはならない状況でした。新参者、途中入社でも働き次第で評価されるということを見せたのでしょう。まさに、経営とは人事です。
あなたの会社の「四天王」は誰でしょうか?構成の妙も含めて、是非考えてみてください。
〇松下幸之助の「徳川家康」観
昭和時代、山岡荘八の「徳川家康」が経営者に流行しました。家康がどういう時にどういう人使いをしたかが面白く書いてあります。だから、君も読むべきだと松下幸之助も進められたそうです。
松下幸之助は「家康は家康。松下は松下」といって、徳川家康のやったことをそのまま真似することは否定します。「家康と同じ知識才能の人であれば、そのとおりやればいいでしょう。しかし、みんな持ち味が違う」と語っています。歴史ドラマや歴史小説を読むときの正しい姿勢だと思います。
ただし、徳川家康については「徳川家康という人は、偉いに違いありませんが、もっとも偉い点は何かというと、運が強いのです。何べん戦争に行って、まさに殺されかけるというときにわずかなところで助かっているのです」と評価しています。「運がいい奴が一番偉い」というのが松下幸之助の哲学です。
歴史はそのままに繰り返しませんが、歴史を鏡とすることは大いに参考になります。ドラマ「どうする家康」は古くはあるが、つぶれそうな徳川会社という企業の社長に就任した18歳の若者が、織田信長会社という勢いある企業とアライアンスを組み、「中堅企業」に成長していく過程でどんな人事戦略をとったかを見るに参考になりました。
山岡荘八の「徳川家康」は全26巻もあり、長すぎます。漫画家の横山光輝が描いた「漫画版徳川家康」(講談社文庫)でも十分にエッセンスはわかります。全八巻ですが、三巻からでも十分です。最初に「本田忠勝」が出てきます。私はKindleに入れて、移動時間などに読んでいます。エッセンスをつかんだら、山路愛山の「徳川家康」(岩波文庫)全2巻がお薦めです。夏休みの読書リストに入れていただいたらどうでしょうか。
〇日経平均上昇の機会を活かせ
現在、日経平均株価が一時、3万3千円を超え好況を示しています。アジアを代表する投資先であった中国の地政学的リスクが高まり、資金の流れが変わりました。これまで出遅れていた日本に注目が集まり、資金が流入、株高となっているのが実情です。そのため、ウォーレン・バフェット氏が購入した伊藤忠、三井物産、三菱商事などの商社株を中心に、世界的に知名度の高い企業の株価のみが上昇しているようです。
海外投資家は2023年4月から6月の期間において、日本株を積極的に購入し、その規模は四半期ベースで過去最大となりました。具体的には、4月から6月の間に海外投資家によって購入された日本株の額は9兆4944億円に上ります。この数字は、遡ること1996年以降のデータが存在する範囲では、2005年10月から12月にかけての8兆9832億円をも上回る、最大の規模です。海外投資家が日本の株高をけん引していると言えるでしょう。
私自身は、韓国財閥ハンファグループ(ロッテと同規模、韓国で7番目に大きい)のハンファソリューションの社外取締役を務めておりますが、韓国でも同様の状況が生じています。実際、韓国の株価指数は2023年初から日本株に先駆けて上昇しています。むしろ日本株は4月まで出遅れていたと言えます。5月半ば以降の急激な上昇により、日本の株価は韓国とほぼ同水準まで追いついたと言えるでしょう。海外投資家による韓国株の買い越し額は12兆3000億ウォンに達し、そのうち世界的に有名なサムスン電子の買い越し分が12兆788億ウォンで、98%と集中しています。
日本は来年から新たなNISA制度が導入されます。おそらく、貯蓄中心だった日本の個人資産が、株、金融資産に回るでしょう。日本株がこのように上昇すると、人々の関心も高まり、多くの人が投資家デビューを果たすでしょう。海外投資家は、今年中に日本株を購入し、来年に高値で売り抜けようと考えているのかもしれません。
新たなNISA制度を進める日本の金融庁などは、どうしても未熟です。イギリスなどは16世紀のエリザベス1世の時代にキャプテンドレークがスペイン船を襲い、メキシコから運ばれていた銀をもとに、国家的な資金運用を行ってきた500年以上の歴史があります。日本の金融庁など、まるで赤子でしょう。
ただし、世界の投資家たちが久しぶりに日本に注目していることは重要です。上場企業や若手企業のCEOやCFOはグローバルなIR(投資家向け広報活動)に力を入れるべきだと考えます。この潮流に乗るべきです。
時価総額をこの機会に引き上げ、その力を活かしてM&A(合併・買収)を推進することも可能です。かつて流行したダイナミックな「時価総額経営」が再び実現できる絶好の機会です。
また、近い将来IPO(新規株式公開)を考えている経営者は、グローバルにどのようにアピールするかを考えるべきです。海外投資家が注目しているので、それほど難しいことではないはずです。
〇GAFAMからMATANAへ
2019年末の時点では、世界の時価総額ランキングは、1位がApple、2位がMicrosoft、3位がAmazon、4位がAlphabet(Google)、5位がFacebookとなっており、GAFAM時代を象徴していました。7位にアリババ、9位にテンセントが入り、中国が投資先として有力でした。Appleが時価総額1兆ドルに到達したことに驚嘆の声が上がっていました。
2021年2月にはコロナが1年経過し、時価総額ランキングでもAppleが1位を維持しました。エネルギー価格の上昇により、2位はサウジアラムコ。3位はMicrosoft、4位はAlphabet、5位はAmazonとなり、コロナ禍でもGAFAMが強さを示しました。そして、この時点で初めてTeslaが8位にランクインします。テンセントは6位、アリババは9位と、中国企業も健在でした。
そして現在の2023年6月、中国企業はトップ10から消えました。1位はAppleで、時価総額は3兆ドルに到達しました。わずか4年で3倍になったのです。
2位はChatGptへの関心もあり、Microsoftです。3位はサウジアラムコ、4位はAlphabet、5位はAmazonと変わりませんが、6位にNVIDIA、7位にTesla、8位にMeta(Facebook)となっています。
シリコンバレーでは、これから世界をリードするビッグテック企業はGAFAMではなく、NVIDIAとTeslaを加えた「MATANA」の時代が訪れると言われています。これにはMetaは入っていません。
AI革命の本格化により、競争が激化しています。コロンビア大学のティム・ウー教授は、「どこからともなく現れた企業に長年のプレーヤーが生きたまま食べられる可能性のある時代」と表現しています。
ビッグテック同士の競争も激しくなっています。例えば、ツイッターに対抗する「Threads」のローンチにより、世界最富のイーロン・マスク(総資産2494億ドル)と世界10位の富豪ザッカーバーグ(総資産1015億ドル)の対立が激化し、「金網デスマッチ」のような争いが報じられています。時価総額で言えば、7位のTeslaと8位のMetaとの争いです。
残念ながら、このようなビッグテック競争の時代において日本からMANATAに挑戦する企業はまだ見当たりません。日本株の上昇を利用して、乱世の時代に名乗りを上げる日本企業が現れることを心から期待しています。「どこからともなく現れた企業に長年のプレーヤーが生きたまま食べられる可能性のある時代」なのですから。
謹啓 夏至の候 2022年2月にロシアがウクライナに侵攻してから15カ月が経ちました。
ロシアで民間軍事会社ワグネルの反乱が起き、モスクワまで200キロの地点で停戦しました。イギリスのファイナンシャルタイムズによると、プーチン氏は情報機関の元工作員であり、陰謀論者であるため、「反乱の根源は米政府にあると確信」していると報じられています。私はこれがターニングポイントになり、決着への動きが加速すると考えています。
日露戦争は1904年2月に始まりました。日本の明石元二郎参謀はレーニンとも会談し、ロシア国内の革命家に資金援助をしたことで反乱の動きが生まれ、1905年9月までの19カ月で終結しました。日本海海戦の勝利もありましたが、当時の日本は情報・諜報工作を重視していました。歴史的に見ると、約15カ月経過すると「反乱」に類する出来事がロシアで起きる傾向があるようです。
諜報工作というといわゆる「機密費」です。長岡外史参謀次長の記録によると、その総額は100万円(現在の約80億円)でした。ただし、明石参謀は厳密に会計を管理し、余った27万円を帰国後に返金しました。使途不明金はシベリア鉄道の便所に落とした数百ルーブルだけだったと言われています。
〇ウクライナ後の世界を話し合った米国、中国
ブリンケン米国務長官は、ワグネルの反乱によってロシア国内で「以前にはなかった亀裂が現れている」と述べ、今後数日から数週間で事態がさらに展開するとの見通しも示し、ウクライナ侵攻が「全くの戦略的失敗だった」と断じています。
ブリンケン国務長官は、6月18日から5年ぶりに中国を訪問し、習近平主席と会談しました。日本ではこれについて表面的な報道が多かったですが、ここでウクライナ侵攻終結に向けて、さらにはその後の世界の展望についてのシナリオが話されたと思います。
第二次世界大戦中、イギリスのチャーチル、アメリカのルーズヴェルト、ソ連のスターリンは、戦後の世界秩序について話し合うため、1945年2月にソ連の保養地ヤルタでヤルタ会談を行いました。そこで、ソ連がドイツ降伏2か月3か月を経て、日本に対する戦争に参加すること。また日本の敗戦後に樺太の南部とこれに隣接する一切の諸島がソ連に返還され、千島列島はソ連に引き渡されることが決定されたとされています。
さらに戦後の発足が議論されていた国際連合の投票方式について、イギリス・フランス・アメリカ合衆国・中華民国・ソビエト連邦の5か国(後の安全保障理事会常任理事国)の拒否権を認めたのもこの会談でした。
主要7カ国(G7)を含む各国の外相が、21日にロンドンで外相会合を開きました。報道によると、「中国を訪問したブリンケン米国務長官がその内容を報告した。各国で対中国の認識を調整したと見られる。ウクライナ情勢についても話し合った」とされています。日本では中国問題だけが注目されていますが、実はウクライナ問題が本題だったろうと思います。日本の政治家も、ウクライナ侵攻後の世界について話し合うべき時だと考えます。ただ、その話し合いに日本を入らせてくれるかどうかもわかりませんが。。
〇6月はミッドウェー海戦の月
日米が戦った太平洋戦争は1941年12月から1945年8月まで3年9カ月、45カ月も続きました。日清戦争が1894年7月から95年4月までの、約10カ月、日露戦争19カ月と比べると長いです。これだけの長距離走を戦い抜いて勝つだけの国力は日本になかったのでしょう。
太平洋戦争のターニングポイントになったミッドウェイ作戦は1941年6月4日から7日に行われました。当時世界最強を誇った空母を中心とする日本の機動部隊は空母4隻と多数の熟練搭乗員を失いました。その敗因は、ミッドウェイ島攻略とアメリカ空母部隊撃滅という作戦目的に二重性があり、あいまいになってしまったこと。日本が伝統的に砲兵戦重視で情報、諜報を重視しなかったことがあげられています。情報、諜報は軍令第三部が担当でしたが、主流になりえませんでした。
これに対し、アメリカ最高司令官ニミッツ提督はハワイで指揮をとり、目的を日本の空母群の撃滅に集中し、「空母以外に手を出すな」と言明していました。また、米軍は日本の暗号解読に成功し、日本連合艦隊の作戦を事前に察知していたと言います。日本側は、暗号が解読されていることをその後も知りませんでした。
ワシントンのスミソニアン航空博物館に行くと、ミッドウェイ作戦によって米軍がいかに勝利したかを説明したコーナーがあります。ワシントンまで行かれる方は少ないと思いますが、もし行かれたならぜひおすすめです。日本のゼロ戦も展示されており、アメリカ人の考え方をよく理解することができます。
〇「失敗の本質」を経営に活かすべき
「失敗の本質・・日本軍の組織論的研究」というロングセラーがあります。ノモンハン事件、ガダルカナル作戦、沖縄戦など、敗戦を研究したものです。その結論は、「おおよそ日本軍には失敗の蓄積・伝播を組織的に行うリーダーシップもシステムも欠如していた」としています。
日本軍は戦闘結果を客観的に評価し、それを次の戦闘への知識として蓄積することが苦手でした。先輩を批判しない文化や敗者に対する寛容な文化がありました。
これに対して、米軍は一連の作戦から有用な新しい情報を組織化しました。ニミッツ提督の「空母以外に手を出すな」という言葉は、真珠湾奇襲攻撃を受け、空母の重要性を素直に認識したことに基づいています。さらに、マレー沖海戦において、プリンスオブウェールズとレパルスという英海軍の2大戦艦が航空機によって撃沈されたことから、米軍は航空主兵への転換を日本より徹底的に進めました。
日本では、経営決断において失敗しても取締役会などでの議論は少ないようです。失敗した場合でも、それを直視し、「失敗の本質」を明らかにし、会社を組織的に改善すべきだと思います。これが企業経営において長期戦に勝利する秘訣だと考えます。
謹啓、芒種の候
昔から芸事の世界では、「稽古はじめ」を6歳の6月6日にすると名人になると言われます。また、世阿弥が記した「風姿花伝」でも、芸を始めるのは数え7歳(満6歳)からが良いとされています。昔から、名人の世界でも、子供や孫の教育、後継者教育は大きな関心事だったのでしょう。
〇米国陸軍士官学校、ウェストポイントの教育
岸田総理は総理公邸で親族と忘年会を開き、公的なスペースで記念撮影をした長男である翔太郎総理秘書官を6月1日付で更迭しました。長男を自身の秘書官やスタッフにすることは、苦労を知らずに権力の甘い側面だけを知ることになり、後継者教育としては失敗だったと考えられます。
アメリカ陸軍士官学校であるウェストポイントの教育方針についても触れておきます。ウェストポイントはニューヨーク郊外に位置し、アメリカ陸軍の幹部教育方針は明確です。彼らは出世競争に有利とされる政務や軍務の「スタッフ部門」ではなく、野戦軍司令官や師団長などの「ライン畑」の経験者を重視しています。これは、会社で言えば企画部や人事部ではなく、厳しい市場での営業事業本部長や子会社社長経営者を重視するという考え方と類似しているかもしれません。
ウェストポイントへの入学には米国下院議員の推薦状が必要です。また、かつて米国はウェストポイント出身のエリート将校全員に対し、パラシュート部隊である空挺隊か、レインジャー部隊の勤務を義務付けていました。
空挺隊員は高度約1,000メートルで飛ぶジェット輸送機から、落下傘一つに命を託して虚空に飛び出さねばなりません。大変な度胸が必要です。さらに、空挺隊には万国共通の規則があり、指揮官はフォローミーとばかりに、隊員より先に飛び降りなければなりません。まさに率先垂範です。
私も松下政経塾時代に日本の習志野空挺隊に体験入隊しました。34尺(約9メートル)の鉄塔からの降下訓練も経験しました。34尺の高さだと地面がよく見えて、心理学的に最も恐怖を感じるそうです。
ところで、近年のウェストポイントの首席卒業生が日本への赴任を希望する人が多いとのことです。ウェストポイントの首席卒業生が欧州ではなく、日本を希望するということは、日本を含むアジアが安全保障上危機的な状況にあり、自らが活躍する場があると考えているのでしょうか。
〇王将と飛車、角の違い
サイバーエージェントの藤田晋社長は、今年6月に50歳を迎えます。まだまだ若いですが、3年後に社長を辞任し、会長になることを発表しました。現在、後継者教育が進行中です。
孫正義氏と後継者について話した際に、将棋の話題になりました。藤田社長は幼少期、王様よりも飛車や角の方がかっこいいと思っていたそうです。「王様は卑怯でしょぼいと感じていました。一つしか動けず、逃げ回ってばかりいると(笑)部下の後ろに隠れてばかりいるようで、汚いと思っていました。なぜもっと男らしく振る舞わないのか」と。しかし、成長するにつれて考えが変わってきたそうです。飛車や角は大胆に動けますが、動く方向が制限されています。そのため攻められやすいのです。「勇ましいとはいえ、結局は天下、国家を抑えられる男ではありません」と。トータルバランスのある「王様」の方が、飛車や角の営業本部長よりも優れているということです。
「小さい頃から王様の役割を果たしてきた人は、頑強です。苦難を経験しているからです。創業者社長が強いのは、小さなころから知識や営業、技術などすべての面で苦労してきたからです。柳井さん(ユニクロ)や永守さん(日本電産)のような方々は、景気の浮き沈みにも耐えられます」とも話しています。したがって、小さな組織でも創業者が望ましいということです。実際に、ソフトバンク(携帯事業)の宮川潤一社長は、ソフトバンク入社前に「ももたろうインターネット」を立ち上げた創業者でした。
サイバーエージェントでは、後継者候補を16人に絞り込んでいます。サイバーエージェントは若くして社長に任命する人事制度があります。候補者のほとんどは社長経験者であり、つまり「王将」の経験者です。きっと優秀な後継者が誕生するでしょう。
〇期待している人にどう接するか
私も今年4月に65歳になり、老年になりました。キケロは紀元前のローマで最高の教養人とされた人物であり、彼は「老年について」(岩波文庫)の中で、「若者の熱意に取り囲まれた老年ほど喜ばしいものがあろうか」と述べています。私はいくつかの会社の社外取締役や顧問を務めており、私よりも若い社長たちに囲まれています。
その中で私が注意していることは、必ず「○○社長」と呼ぶことです。もちろん、社外取締役の中には親しみを込めて「○○さん」と呼ばれる方もいます。これは、二度総理となり、最後の元勲と称された西園寺公望の行動から学んだことです。
近衛文麿(細川元総理の祖父)がまだ学生だった頃の話です。彼は西園寺公望に呼ばれて、緊張しながら伺いました。西園寺公望は若い近衛氏に対して「公爵、公爵」と敬称を使いました。若かった近衛公は「私に公爵なんてそんな堅苦しいことを言わないでください」と言ったそうです。しかし、西園寺公望は「いや、そうではありません。あなたは重要な方なので、当然のことです」とおっしゃったそうです。後で、側近の人に言われたのは「あれでは困る。私が公爵と言っているのは、皮肉やからかいではなく、立派な公爵になってほしいと思っているから礼を正しているのじゃ。それが分かるかのう」ということでした。
キケロは「老年期のために、青年たちを教え導き、どんな義務でも果たせるように育て上げる力を、我々は残しておくべきではないか。実際、これより立派な仕事があろうか」と述べています。私は松下政経塾を卒業し、衆議院議員として9年間、孫正義の参謀としても9年間活動しました。最後の仕事は、松下幸之助と孫正義から学んだ経験を伝え、日本の復活に貢献できる人材を育成することだと考えています。
「広島サミット」が閉会しました。G7の首脳がそろって広島平和記念館に献花し、ウクライナのゼレンスキー大統領が参加するなど、日本と世界にとって良い成果がもたらされたと思います。岸田首相、湯崎英彦広島県知事など、よく知っている方々が無事に責務を果たされたことを喜んでおります。
〇「日本の日の出」は来るか?
岸田総理が政府専用機777で、広島市街地から1時間とちょっと遠い、広島空港に到着した5月18日。シンガポールから金融界が注目したレポートが世界に発信されました。
バンク・オブ・シンガポールのチーフエコノミスト発信のレポートの題名は「日本の日の出」でした。1980年代の「ジャパンアズナンバー1」を彷彿させるようなネーミングです。サミットで日本は存在感を示し、その後、日本株は33年ぶりの高値を記録しました。
米バンク・オブ・アメリカのアナリストは、より長期的な時間枠では、日本株が今後さらに33%上昇し、1980年代の日本の資産バブルの末期につけた史上最高値、1989年末の3万8915円に達するという予測を出しています。
日本は1990年代の繁栄から衰亡期に入ったと見られています。しかし、ローマ帝国衰亡史を書いたギボンの言うように、衰亡は一直線ではありません。経済が活力を失い始めると、人々は政治的にはしばしばより賢明で巧妙になります。
今回、「日本の日の出」と言われるのは、まさに米国と中国の覇権争いによる漁夫の利をえた日本の有利さ、地政学的な要因によってもたらされています。ワシントンの「反中国」政策はますます強まっています。広島サミットは、日本がアジア最大の代表国としてどの交渉のテーブルにおいても存在感を発揮するという、珍しくも幸運な機会を得ることができました
〇世界の外交官のサミット評価
サミットに参加した外交官たちは(1)日本がこの機会と国際的なホスト役の両方を明らかに享受していること、(2)韓国、インド、ブラジル、ベトナムの首脳も招いてサミットの枠組みを広げたことというポジティブな分析をしています。
さらに上級政府高官たちの話では、岸田首相は日本をアジア地域における新たな冷戦のブロック形成によって定義される、(1)安定的で強固な、(2)サプライチェーンに優しい西側のパートナーとして位置づけることができたと述べています。まさに大成功です。
サミットを契機にもたらされた「日本の日の出」を現実のものにするために、政治家も経営者も進むべき時だと思います。中国、東南アジアに向かっていた世界の資金があきらかに日本にまわってきます。
〇高坂ノートに見る「サミット」とは
40年以上、大事にしている「講義ノート」があります。松下政経塾の時聞いた、高坂正堯京都大学教授の「国際政治」のノートです。紙も少し黄ばみ、色あせていますが、時おり読み返しています。
最初のサミットは、1975年11月にフランスのフランスのランブイエで、ジスカールデスタンフランス大統領を議長として開催されました。ドイツのシュミット首相とともに、開催を促進したとされています。
私が高坂先生の講義を聞いた1980年代のサミットは、レーガン大統領、サッチャー首相、日本は中曽根総理となかなかの政治家が揃っていました。
サミットの機能は第一に、トップが協議することで世界が「悪循環」をもたらすときの歯止めになること。第二に、国内を説得するのに非常にいいツールになること。第三にメンツをたもたせながら退却することを促すことができる事と、ノートにあります。
ウクライナに自衛隊車両100台を供与するなど、一昔前なら大議論になることがそのまま認められたのは第二の機能でしょう。
日本にとって最も重要なのが、第四の機能。ヨーロッパに対してもアメリカに対しても日本がモノを言える機会となる機能です。時には、ヨーロッパに日本の立場を代弁してもらうことも重要とあります。
今回の広島サミットは、まさにそうでした。「高坂ノート」の紙は色あせていますが、内容は色あせていません。
〇中曽根首相を超えた?!
1983年、カナダ。ウィリアームズバーグ・サミットの記念撮影で真ん中のレーガン大統領の隣でカメラに収まっていたことが、日本の地位が上がったと、無邪気に嬉しかったことを思い出します。「やるじゃない、やりすぎじゃない中曽根さん」との言葉が流行したりしました。
日本以外の参加国は、北大西洋条約機構(NATO)や欧州連合(EU)の構成国で首脳たちは年に何度も顔をそろえて、会談し、意思疎通を図っています。日本はある意味「蚊帳の外」であり、欧米各国の首脳と同時に会えるのは、サミットだけなのです。そして、アジアで開催国になれるのは日本だけであることを忘れてはなりません。
今回、岸田首相は核保有国3国を含む7か国首脳を平和記念館に案内し、原爆慰霊碑で献花をしていただき、世界に平和へのメッセージを広島から発信しました。岸田首相の行動は、歴史への挑戦を世界に働きかけたという意味で、ウィリアームズバーグ・サミットの中曽根首相を超えたと思います。
5月6日、アメリカ大陸の中央部にあるネスブラスカ州オマハで、時価総額世界第6位のバークシャー・ハザウェイの株主総会が開かれました。
92歳になる「オマハの賢人」、ウォーレン・バフェットは「ビジネスでも人生でも大きな失敗を避けるにはどうすればいいか」という哲学的な質問を受けました。
バフェットは一息おき答えました。「自分の死亡記事を書いてから、その通りに生きるにはどうしたらいいか考えなさい」付け加えて、「そんなに複雑なことではない」と語りました。
私もバフェットのアドバイスにしたがい、自分の「死亡記事」を書いてみようと思っています(笑)皆さんもいかがでしょうか。
〇日本は今より大きくなる
バフェットが4月11日に訪日しました。コロナ真っ只中の、20年8月に伊藤忠、三菱商事など五大商社株を購入。コロナ終焉が見えた22年11月には保有比率6%に拡大したことを発表。さらに7.6%にまですると最近発言しています。12月には円建て債発行額が合計で1兆円を超えました。
大手5社の23年3月期の合計純利益は約4兆2000億円。大量保有を始めた21年3月期から4倍超。株価も保有を公表した20年8月から8割高〜3.3倍となっています。さすが、バフェットというしかありません。
バフェットは「20年後や50年後に日本や米国が今より大きくなっていることは確信が持てる」「今日が永遠に続くわけではない。10年後、20年後どうなっているかを真剣に考えることだ」と語りました。
日本悲観論が蔓延する中、オマハの賢人の長期的に楽観的な予測は嬉しく思いました。
〇「台湾より日本のほうが良い」の真実
バフェット氏が「台湾より日本の方が良い投資先だ」と言ったことも注目を浴びました。
熊本に進出したことでも知られる台湾の半導体メーカー、TSMCをバフェットは2022年7~9月に41億ドル超相当を購入しました。
しかし、その3か月後、22年末までに保有株の86%を売却したのです。バフェットの投資はBUY&HOLD、長期保有が原則で、それに反する動きでした。
台湾の地政学リスクがその原因です。ワシントンでは米中間で戦争が起きるかもしれないという議論が頻繁にされていることに驚かされます。
2022年10月、米海軍のマイケル・ギルディ作戦部長が、中国の台湾侵攻が2023年までに起きる可能性を示唆しました。その後、バフェットはTSMCを売却します。さらに、今年1月に中国を担当していた元インド太平洋軍副司令官で現在、米空軍の司令官のマイク・ミニハン氏は「台湾有事が2025年に起こる」と予測。準備を急ぐよう指示するメモを同僚に送ったことが明らかになっています。
軍人が「最悪に備えて準備する」ことは当然です。しかし、私は台湾侵攻が起きる可能性は低いと思っています。中国が現在のところ、アメリカと戦って勝てるはずがないことを中国指導部は知っているからです。
「勝兵は先ず勝ちて而る後に戦いを求め、敗兵は先ず戦いて而る後に勝を求む」。勝つ方は先に勝つという見通しがたってから戦い、負ける方は戦いを始めてからどうやったら勝てるかを考えるという「孫子」の言葉です。5月7日の大河ドラマ「どうする家康」の武田信玄のセリフにもありました。
孫子の本家本元である中国が勝てない侵攻はしないでしょう。また、ロシアのウクライナ侵攻が長期戦になりプーチンの指導力に陰りがでていることも、中国指導部を慎重にさせると思います。私は2025年までに中国の台湾侵攻はないと予測します。
〇バフェットが信奉しているケインズ
「ケインズの論考を読むことで証券・市場についてより賢くなれる。」
バフェットが1930年代の大恐慌に対処した、イギリスの経済学者ケインズを信奉していることは良く知られています。
「正しい投資手法は、その経営内容を理解し、経営陣を信頼する企業にまとまった額を投資すること」。バフェットが好んで引用するこの言葉は、ケインズによるものです。「雇用・利子および貨幣の一般理論」(岩波文庫)、「ケインズ説得評論集」(日経)は学生時代に読んでから私の座右の書となっています。
21年の株主総会のことです。その頃ブームだった「SPAC」をギャンブルと同じで長くは続かないと批判しました。その根拠として、ケインズの「一般理論」12章をボードにして紹介していました。
「事業の安定した流れがあれば、その上のあぶくとして投機家がいても害はありません。でも事業の方が投機の大渦におけるあぶくになってしまうと、その立場は深刻です。ある国の資本発展がカジノ活動の副産物になってしまったら、その発展は多分、まずい出来となるでしょう」
このところの経済状況を見て、参考になると思ったケインズの言葉を紹介します。
「何日も経たなければ結果が出ないことでも積極的になそうとする、(投資への)決意のおそらく大部分は、アニマルスピリッツ(血気)と呼ばれる・・人間本来の衝動の結果によって行われるのである」(一般理論12章)
「物価が毎月上昇している時期には、企業家はそれ以上に大きな利益を得る機会に恵まれる」(インフレーションとデフレーション)
「大きな戦争がなく、人口の極端な増加がなければ、百年以内に経済的な問題が解決する」
(孫の世代の経済的可能性 1930年)
〇バフェットが学生に語った成功の鍵
投資を学ぶニューヨークにあるコロンビア大学の学生達がバフェットを訪ね、「成功の鍵は何ですか」と質問しました。
バフェットが答えたのは食事をコカ・コーラとハンバーガーですますライフスタイルでも、投資戦略でも、グローバルな投資家同士のネットワークでもありませんでした。
「あれです」彼が指差した先にあったのは、新聞5紙、企業の財務資料、本の山でした。バフェットは長い時には起きている時間の80%を読書に費やしているといわれます。
「毎日500ページは読むことです。知識は、複利のように積み上がっていくものなのです。これが成功の鍵で、誰にだってできることです」そして、最後に付け加えました。「ですが、本当にそうする人は、まずほとんどいないでしょうね」
私は投資を自分ではいたしませんが、バフェットの姿勢を学び、新聞5紙(海外2紙含む)を読み、毎日、500ページは無理としても、読書に勤め、これからの仕事に活かしたいと思います。
謹啓、穀雨の候。まもなくゴールデンウィークがやってきます。旅行者総数は、コロナ前の2019年並みに復帰し、2450万人に達するとの予想です。インバウンドにおいても、3月には訪日外国人数が181万人と、コロナ前の約7割に戻りました。大阪のIR(カジノを含む統合型リゾート)が認定を受け、2029年開業に向けて動き出しています。
〇松下幸之助の観光立国論
松下幸之助は、まだ日本を訪れる観光客が5万人に過ぎなかった昭和29年(1954)の文芸春秋五月号に「石炭掘るよりホテル一つを」と「観光立国の辨」を発表しました。
ともすれば、観光産業が低く見られていた時代。日本経済を引っ張る製造業のスター経営者が観光産業振興を提言したことは注目されました。
アメリカの視察でハワイに行った松下幸之助は、「私がハワイに行って驚いたことは、(中略)観光客が落とすお金で、街は見事に舗装され、人々はのんびりと豊かに暮らしていた」という感想を持ちました。
また、「あらゆる観点から国の資源を最も適切に活かさなければならない。わが国で最も重要なものは、天然の景観美である。ハワイのホノルル、ワイキキの浜も世界に名高い風景であるが、日本の景観美に比べると遠く及ばない。特に、持っている人が持たない人に与える相互扶助の理念から考えると、瀬戸内海をはじめとする日本全国の美しい景観は、日本人だけが楽しむものではないと思う。これらを世界に広め、自然に生じる利益を、日本の産業などに投資し、活用することで、観光業の真の使命があるのではないかと考える」と述べています。
さらに、「いわゆる物品の輸出貿易は、日本の限られた資源を出荷することになるが、富士山や瀬戸内海は、見ても減ることはない。運賃も必要ないし、箱詰めも不要だ。(中略)こうしたうまいビジネスは、他にはないと思います」と述べています。
当時、「見世物産業」と軽んじられていた観光業に光を当て、「観光立国」を唱えた先駆的な経済人が松下幸之助でした。おそらく、日本で初めてだったと思います。
私自身も、松下政経塾の3年生のとき、観光産業の巨頭である西武グループの堤義明氏と松下幸之助塾長との会談に同席し、その後、実習として2年間、西武でお世話になり「観光産業」を身をもって学びました。
その頃、西武ライオンズが本拠地として所沢を選び、所沢開発を進めたり、北海道の富良野の開発を進めていたため、大いに学ぶことができました。
〇日本の観光産業は競争力世界第4位
日本の将来をみるとあまり良いものはありません。
IMDが発表する世界競争力ランキングでは、1991年には日本が1位だったものの、現在は31位にまで低下し、中国にも抜かれるなど、低下が続いています。
ただし、世界の観光競争力ランキングを見ると、日本は世界で第4位となっています(世界経済フォーラムのデータをもとに、ニッセイ基礎研が算出)。1位はスペイン、2位はフランス、3位はドイツであり、イタリア(8位)、スイス(10位)、中国(13位)などよりも上位に位置しています。
それぞれのインバウンド数を見ると、スペインは8227万人、フランスは8692万人、ドイツは3888万人でした(2019年、コロナ前)。
一方、日本は3119万人であり、スペインやフランスと比較するとまだまだ伸びる余地があるようです。政府が掲げる2030年までに訪日外国人6000万人という目標も、政策次第では達成可能だと思われます。
〇少子高齢化は東京、大阪の商店を壊滅させる
少子高齢化が問題となっています。第一生命経済研究所は、人口減少の結果、実質国内総生産(GDP)成長率は30年代には0%台前半、40年にはマイナス成長に陥ると予測しています。
当然に、その影響の一つに国内消費市場の縮小があります。2015年の国内消費市場規模は158.4兆円でしたが、約30年後の2050年には121兆円に減少すると予測されています。特に、実店舗での購入額は145.9兆円から64.1兆円に激減するとされています。(「エコノミスト」2022年1月4日号)
このような状況では、地元商店街の飲食店や商店が後継者難に陥るのは当然のことです。先が見える人ほど、後を継がない傾向にあります。
しかし、この問題は地方だけの問題ではありません。消費額が最も大きく落ち込む都道府県は、ワースト1が東京都(8699億円減)、ワースト2が神奈川県(5875億円)、ワースト3が大阪府(5689億円)となっています。首都圏や関西圏でも消費額が大きく減少する見込みです。
これまで、地方から首都圏や関西圏への一極集中により地方商店街がシャッター通りになり、疲弊していたとされていますが、今後の30年間はまだかろうじて残っている首都圏、関西圏が沈む状況となります。人口についても、神奈川県(81万人減)や大阪府(150万人減)が減少する中、東京都は9万人増加すると予想されていますが、それでも消費額は減少することになります。
1990年は日本経済のピークであり、当時アメリカの人口は約2億5千万人で、日本は1億2000万人で約2分の1でした。2023年においても、日本の人口は1億2400万人で横ばいのままですが、一方でアメリカは3億3500万人に増加しました。アメリカの人口増加の原因は、多くの移民がいることにあります。
日本で移民政策をとることは歴史的経緯から考えても現実的ではないと思います。英語ではなく日本語が社会で使われているため、移民する側も躊躇するでしょう。そのため、短期的な移民である外国人観光客を増やすことが賢明な方法だと思われます。
〇シンガポールIRをモデルとせよ
大阪にIRが誘致されることは、観光振興の起爆剤になると考えられます。世界的にIRが広がった要因は、MICEというキーワードにあります。MICEとは、Meeting(会議、セミナー)、Incentive tour(報奨旅行、招待旅行)、Conference(国際会議、学会)、Exhibition(展示会)の頭文字をとったもので、主にビジネストラベルや商用観光客をターゲットにします。ビジネスユースでは、多くの集客が一度に行えるため、消費額も大きくなります。
しかし、IRにはカジノが含まれます。そのため、「ギャンブル依存症が増えるのではないか」「反社会勢力が関与して治安が悪化するのではないか」といった懸念があります。これに対し、建国以来カジノが禁止され、厳しい規制で有名なシンガポールが、国民的議論の中でIRを導入した例があります。
シンガポールがIRを導入した際に行われた、リー・シェンロン首相の国会演説には次のようにあります。「政府が検討しているのは、あくまで統合型リゾートであり、カジノではありません。・・・シンガポールでカジノを認めるか否かであれば、政府の決定は明白です。・・・我々の目的は統合型リゾートによって、富を生み出し、雇用を創り出すことです。」
また、治安を担当するウォン・カンセン内務省も同じ日に発言しました。「もしもシンガポールが検討しつくされた解決法という安全な選択肢にこだわれば、我が国の成長は停滞します。・・・行動を起こすことに躊躇したなら、将来、その事業が近接都市で実現した時に、我々はみずから選択した慎重なアプローチに後悔することになるでしょう。」
2010年には、シンガポールに「マリーナ・ベイ・サンズ」と「リゾート・ワールド・セントーサ」という2つのIRが開業しました。外国人観光客数は、開業後(2013年)には1550万人と大きく跳ね上がりました。
〇カジノでの経験
私は1月にシンガポールで講演をさせていただきましたが、その際の会場は「マリーナ・ベイ・サンズ」というIRでした。このIRの近くには1万1千人規模の国際会議が開催できるコンベンションホールもあります。また、私はカジノにも行ってみました。ドレスコードはなく、カジュアルな格好の人たちがゲームに興じていました。入場にはパスポートチェックがあります。私はかなりスマートになったので、「写真と違うのでは」とかなり厳重にチェックされてしまいました。シンガポールのシステムにはさすがだと感心しました。(笑)
ベイサンズホテルは、屋上のプールが有名で、ソフトバンクがSMAPのCMに使用したこともあります。私はベイサンズホテルで担当してくださった日本人コンシェルジェに「カジノができてどうですか」と尋ねました。その答えは「潤いが生まれたと思います」というものでした。
朝食は、ベイサンズホテルのメインビュッフェとプール横のレストランで取りました。日本のホテルビュッフェと同じように、卵料理が注文できました。ところが、出てきたオムレツは日本とは異なり、フワフワではなく形も崩れていて、まるでお好み焼きの失敗作のようでした。これでは、「日本にIRができたら勝てるな」と思いました。
このゴールデンウィークは是非とも、日本の「観光立国化」は可能かを考えていただきたいと思います。
入社式、入学式の季節です。
松下幸之助が早稲田大学に招かれ、講演をしました。昭和36年のことでテーマは「運と人生」でした。そのなかで、ある会社の入社式で話した事を紹介しています。
〇重役、部長になる方法
「立身出世というと語弊がありますけれど、やがて部長とも重役となられることは、やはり皆さんの希望と考えてよろしいでしょう。間違いなく重役、間違いなく部長になる方法を教えましょう」
皆、聞き耳を立てていたそうです。天下の松下幸之助が、重役、部長になる方法を教えてくれるというのですから。
その方法とは「入った会社をいい会社だとほめる事」。
「この会社に入ったことは非常に縁あることでこれは宿命なんです。だから一年発心して・・家に帰ったらお父さん、お母さんに『今日、入社式に行ってつくづく考えた。こんないい会社はないと思う』と言いなさい・・・まず、成功の第一歩はこれだ。
そして友達にあったら『俺の会社は入ってみると思ったよりいい会社や。・・俺はこの会社と運命を共にすることを決めた』・・これに終始一貫しなさい。そうしたら君自身もやがてそうなってくる(笑)」
ただし、これを徹底してやること。いったんその道に入ったなら、心身ともに打ち込んで、言動がそうなれば、周りがほっておかない。だから、重役、部長になることは保証するというものです。
正直言って、最初聞いた時は、「なんだそんなことか」と思いました。その後、経験を積み、「縁あった会社をほめる事」の深い意味がよくわかってきました。
〇時給にふさわしい仕事を
私は大学を卒業後、直接、松下政経塾に入りました。新入塾生の私たちに、多くの先生から塾生としての在り方に対し、お話を伺いました。その中で印象に残っているのが後に経済同友会の代表幹事も務められた牛尾治郎さんの話です。政経塾の最終三次試験は松下塾長の面接でしたが、牛尾さんは私の二次試験の面接官でした。
牛尾さんのお話は第一に「時給、付加価値の意識を」、第二に「指導力の七割は職人的能力」、第三に「判断は天守閣で」というものでした。
牛尾さんは政経塾の理事でした。「私は理事の一人として、あなたたちには1分15円のコストがかかっているから、45円の付加価値だけは十分につけてほしい」ということだけは言いたいというものでした。
政経塾は、大卒初任給程度の研修資金が支給されます。当時は10万円程度だったと思います。年間120万円。年2000時間働くとして、1時間600円。一分15円。健全な企業というのは人件費は付加価値の3分の一でなくてはならない。したがって、3倍の45円の価値を生むべきだというものでした。これは、会計学を学んだ私はすぐに理解できました。
新鮮だったのは、日本企業で、節約のために、封筒を裏返して使えというところが多いが、それはおかしいという発言でした。封筒を裏返して5分間もこねまわしているなら、200円もかかることになる。それなら15円か30円の封筒を買ってきてどんどん仕事をしてもらった方がいいというのです。
私はこれを時給と付加価値にふさわしい仕事をしろということだと受け止めました。国会議員は私の頃は年間2400万円の報酬でした。国会議員は休みが少ないですから300日働くとして、1日8万円。8時間働くとして時給1万円。時給1万円にふさわしい仕事をすべきと肝に銘じ、コピーなどはスタッフにしてもらい、自分は日本の針路を考えるのに専心していました。
すでに8年前になりますが、孫正義氏の後継者として招聘されたニケシュ・アローラ氏の年棒は165億円。1年200日働くとして、1日約8億円。時給は1億円。15分のミーティングで国会議員の年棒、2500万円になります。それだけの価値があったかどうかはあえて申しません(笑)
〇指導力の7割は職人的能力、だから学べる
政経塾で学ぶにあたって一番言いたいことは「指導力の7割は職人的能力だ」ということだと牛尾さんは言われました。
日本の彫刻職人は非常にいい彫刻の構想を持っているけれど、彫刻職人としては二流。イタリアの彫刻家は、彫刻のイメージとしてはギリシアなどの古いものの真似ばかりしている。しかし、彫刻という基本的な職人技術を身に着ける環境がイタリアにはあるので、超一流の職人にはなれる。そのなかから芸術的感性のある人が有名な芸術家になるというのです。
このことは企業経営でもいえる。企業経営は実は7割は職人技術である。そのうえで「新しい時代はどうあるべきか」というのであれば経営はうまくいく。しかし、ビジョンと構想だけがあって、経営職人としての技術がない人は失敗して倒産してしまう。これは、ベンチャー企業経営者とよく話す私には実感できることです。
指導力、リーダーシップも同じで、基本的に職人的技術である。その職人的技術というのは、結局、徒弟奉公に近いようなたゆみない訓練による熟練によるものでしかないというのです。
この牛尾さんのご指摘は、裏返してみると、誰でも、訓練と熟練という努力によって指導力を身に着けることができる。つまり、学べるということです。新人の皆さんには、ぜひ努力して指導力を身に着けてくださるようにお伝えください。
〇判断は天守閣で
もう一つ記憶に残ったのは牛尾さんが大事な判断をする基準は、視野の広さ、視野の長さであり、そのためにふるさと姫路城の天守閣に登って判断するといわれたことです。
この裏付けとなったのが、英国での経験です。英国のウェールズに電気会社の工場ができました。そのころ、英国病と言われていました。そこで、日本式経営を導入してよい製品を作れるようになったのです。
日本的経営というのは、工場長、部長という幹部も社員食堂で皆と同じ食事をして、同じ作業着を着て、土日には社員旅行のようにバーベキューをした。つまり、グラウンドにおりるリーダーシップを導入したのです。
ところが、その工場長は、「短期的にはこの工場は成功した。しかし、長期的には世界で負ける」として辞めてしまったというのです。
彼は、オックスブリッジのエリートでした。オックスブリッジというのはオックスフォード大、ケンブリッジ大を出た人という意味で、世界を代表するリーダー教育を受けた人でした。そこでは、リベラルアーツを学び、ノーブレスオブラージユなどのリーダーとしての行動を学びます。
牛尾さんは「たしかに、民主的な指導者は増えたけれども、目線が低くて、グラウンドの目線でジャッジしている人があまりに多い。そこに今の日本の不幸がある」と言われました。
短期の判断はグラウンドでやっていい。しかし、中期、長期の判断は天守閣に登って、決定しなければならないということでしょう。
その後のイギリス経済の復活、日本の衰退をみると、あまりに判断を天守閣でするリーダーが少なかったことを実感します。
入社式の挨拶、あるいは新人研修での話は新人にとって大きな意味を持ちます。是非とも、新人の皆さんの人生に影響を与える話をしていただきたいと思います。
韓国の尹(ユン)大統領が3月16日に日本を訪問され、岸田総理と会談しました。すき焼きの後、銀座の煉瓦亭でオムライスを一緒に食べました。「首脳同士の食事でオムライスか?」という意見もあります。二人はシャトル外交に合意しました。これからは「友人関係」になるとして気楽な食事をしたのは良かったと思います。
〇アジアに友達がいない日本
ドイツ、フランス、イギリスの首脳はウクライナ問題などで見られたようにも、すぐに集まってシャトル外交を展開します。
パリとベルリンの距離は878キロで東京―札幌とほぼ同じ。パリとロンドンに至っては343キロで東京―大阪の約400キロより近いのですからシャトル外交もしやすいでしょう。
もうひとつ、シャトル外交がしやすい理由は、それぞれの国の一人当たりのGDPなど経済水準が似通っていて、「友人」としてつきあえるからだと思います。
2001年に(私は衆議院議員でした)、ドイツ統一を推進したシュミット元首相にお会いしました。その時、「日本はアジアに友達はいるのか」と聞かれたことがあります。私は「アジアはヨーロッパと違い、日本のGDPだけが突出している。歴史的な経緯もあり、なかなか友達関係になれるような国はない」と答えました。
〇給料は韓国の方が上
その当時、NHKで「冬のソナタ」が放送されていました。それから20年。韓国の所得は3倍になり、日本は横ばいのままです。韓国は重工業化の「漢江の奇跡」。いちはやくIT革命を推進した「江南スタイルの奇跡」を起こしました。
現在の一人当たりGDPは日本40170ドル(世界銀行データ)、韓国33190ドルですが、このままだと近い将来、日本が抜かれるだろうと予測されています。購買力平価でくらべるとすでに抜かれているという説もあります。
大学生にとって、日本で三井や三菱に入るより韓国のサムスンに入ったほうが給料が高いとはよく言われることです。
つまり、日本だけが経済力で突出している時代はすでに過去のものとなっているということです。東京とソウルは直線距離で1160キロ。東京-稚内とほぼ同じ、沖縄の那覇1554キロよりも近いです。是非シャトル外交を進めて、首脳同士の「友人関係」を造ってほしいと思います。
〇地政学の基礎・・ランドパワーとシーパワー
「地政学リスク」という言葉がよく聞かれます。地政学の開祖とされる英国人、H.J.マッキンダーは下院議員、ロンドン大学政治経済学院の院長も務めました。
マッキンダーは第一次大戦をユーラシア大陸のハートランドを制覇しようとするランドパワー(大陸勢力)とこれを制止しようとするシーパワー(海洋勢力)、英国、米国の、死活をかけた闘争であると見ました。その頃、ロシアないし、新興国ドイツなど、大陸内部に大帝国が出現する条件が萌し始めたのです。
ドイツではヒトラーがその政策的支柱にしたというハウスホーファーが知られています。
「国家はその国力に応じて、エネルギーを得るための領域、すなわち『生存圏』を獲得しようとするものである。それは国家の権利である」というものです。
ランドパワーは生存権思想で領土を拡張しようとします。シーパワーは海ですから自由貿易で外に開こうとする傾向を持ちます。現代にあてはめるとロシア、中国などがランドパワー、米国、英国がシーパワーと言えましょう。
〇地政学で見る朝鮮半島
地政学でみると半島ほど危険なところはありません。ランドパワーが強くなり、世界に広がろうとしても、その逆でもつねに半島はその通り道になります。朝鮮半島を見ると元寇のときも通り道でしたし、どこまで本気だったかはわかりませんが、豊臣秀吉が明を攻めようとしたときも通り道でした。
議員時代、韓国の政治家と話した時、「朝鮮半島が北と南にわかれているのはランドパワーとシーパワーが均衡している形でかえって安定している姿ではないか」と発言し、激論になったことがあります。
私は地球儀を眺めるのが好きです。地球儀を見ていると、日本は安全保障上、極めて危険だということを実感します。日本の隣国は、ロシアと中国。ともにランドパワーで日本との間に領土問題を抱えています。北朝鮮とは正式な国交関係がありません。
シーパワーのアメリカは太平洋があり、はるか遠くなのです。ワシントンまではANAの直行便で14時間かかります。
島国の日本にとって朝鮮海峡があることは、軍事費にして2%の価値があると国際政治学者の高坂正堯先生から教わりました。陸続きであったら大変です。
何にしても朝鮮海峡をはさんで隣国である韓国の首脳と日本の首脳が「友人関係」にあることは安全保障上良いことだと思っています。
〇タクアンとキムチを乗り越えよ
1981年、私は松下政経塾に2期生として入塾しました。4月下旬、松下幸之助塾長の初講義が行われました。松下塾長は韓国を訪問したばかりでその時の状況を述べられ、「あの国は伸びる。皆さんは韓国をきちんと研究しないかんな」と言われました。
1984年、私は政経塾有志で「松下政経塾韓国研究会」を結成し、訪韓しました。5時になると、国歌が流れ、皆が国旗降下を直立不動で見るという時代でした。当時の日本のGDPは3兆4979億ドル、韓国のGDPは2245億ドルと15倍以上でした。一人当たりのGDPでも4倍以上でした。
松下幸之助塾長が韓国で尊敬される経営者であったこともあり、たしかKBSだったと思いますが、テレビにも出演しました。「日韓関係に命を懸ける青年たち」と紹介され、大げさな表現にびっくりしました。
ただ、韓国では「命を懸ける」というのはよく使われる表現だとは後で知りました。韓国ドラマを見られる人は「命を懸けて彼女を守ります。(モクスムル コルゴ クニョルル チッキゲッスムニダ)」というのをよく聞かれると思います。
韓国と日本は似ているようで文化に差があります。「泣いて謝る日本」対「泣いて怒る韓国」。「お通し有料の日本」対「たくさんのオカズがおまけの韓国」。「建前の国日本」対「本音の国韓国」とか、まさにタクアンとキムチの違いがあります。
まずは尹大統領と岸田総理のように交流を盛んにする。そして、韓国との、タクアンとキムチの文化摩擦を乗り越えてゆく。それが日本の国益にもビジネスにも良いことだと思います。
「出生数80万人割れ」を歴史的に考える
2022年の国内の出生数が80万人割れとなったことが話題になっています。前年比5.1%減の79万9728人。80万人割れは、統計を取り始めた1899年以来初めてで、想定より11年早く少子化が進みました。
自然減は78万2500人。山梨県が80万人でほぼ同じと報道されていますが、山梨県の人口は47都道府県中41位。以下、佐賀県(80万)、福井県(75万)、徳島県(70万)、高知県(67万)、島根県(66万)、鳥取県(54万)です。毎年、これらの県が消えてゆくということになります。
〇明治維新の頃、日本人口は3300万人
講演でもよくお話しますが、私は「困った時ほど遠くを見よ」とし、「歴史を鏡」として長期的に歴史で考えるようにしています。
明治維新の頃の日本の人口は3330万人でした。それが2010年には1億2800万人と約150年間で1億人増えます。この間は日本の人口激増期でした。つまり、特別な時期だったのです。
日本の人口は2050年に9500万人になると言われています。ドイツが80年代に1.2であった出生率を1.5にしたとして「小さな奇跡」と評されています。そのドイツの面積は35.7万平方キロと38万平方キロの日本とほぼ同じ。ところが、人口は8177万人です。2050年の日本は今のドイツよりも人口が多いのです。
〇江戸時代の男性未婚率 46%
応仁の乱の頃(1467-1477年)、人口は1000万人でした。この時代は、結婚して子孫を残すというのはどちらかいえば身分や階層の高い者に限られていて、使用人などの隷属農民たちは生涯未婚が多かったのです。
武田信玄など戦国大名の規模の大きな領内開発で、経済が発展します。小農民が自立すると、皆が結婚する「皆婚社会」化によって出生率が大きく上昇しました。大河ドラマで「どうする家康」を放送していますが、関ケ原の戦い(1600年)の頃、人口は1700万人に増加しました。
江戸時代も皆婚化が進みます。現在の中津川、馬籠の近くである信濃国湯舟沢村に記録が残っています。それでも、1675年、男の未婚率は全体で46%でした。
それが、1771年時点で、男の未婚率は30%にまで下がります。この傾向は日本全体に及び、人口は3000万人を突破します。ほぼ倍増したのです。ちなみに2022年の男性未婚率は28.3%ですからその頃と同じです。
〇人口停滞の原因は三極集中
その後、人口は停滞します。明治維新までの150年間、3300万人と1割しか増えません。
この人口停滞の原因は江戸、京都、大阪への三極集中であると言われてています。一極集中の結果、衛生環境が農村より極めて悪くなり、都市=アリ地獄とも言われました。
また、現在と同様に都市では長屋に住めればいい方で、住環境も悪く、家族を持つことは困難になり、出生率が下がってゆきます。
カリフォルニア・バークレー校の教授で、日本研究センター所長のトーマス・スミスの調査によると、三都や多くの城下町は江戸時代後半に人口規模を縮小させたと立証されています。つまり、三極集中が住環境悪化、未婚化の上昇、人口停滞を招いたのです。
現在にあてはめると東京一極集中が人口停滞を招いているということでしょう。
〇寛政の改革にあった地方移住政策、人口回復政策
コロナ禍で働き方が変わり、地方への移住を考える人が多くなり、いくつかの地方移住政策が喧伝されています。
1787年、田沼政治を否定し、老中首座となった白川藩主、松平定信が寛政の改革を断行します。天明の飢饉の際にも領内から餓死者を出さなかった藩政改革の手腕を買われ、期待をもたれての就任でした。
定信が行ったことの第一が、江戸に流入した農村出身者の帰農を奨励する旧里帰農令。国への旅費・食料、農具代などの補助金も出すというもので、地方移住策に似ています。
さらに、「間引き禁止」と養育資金給与などで人口回復策をとりました。養育資金給与など国会で議論されている「児童手当倍増」に似ていると思います。
また江戸、石川島に職業教育の為「人足寄場」を創りました。これも「リ・スキリング」に似ています。
これらの施策は直接的にはどれもうまくいきませんでした。ただ、定信が行った文武奨励策は長期的に効果を発揮します。
天明期(1781-1789年)に全国で寺子屋が普及します。江戸では一町内に3から4軒ありました。農村でも読み書きソロバンを教えました。「読み」を覚えた農民は農作物の栽培方法、家畜の飼育方法の書かれた「農業全書」を読むようになり、生産性が上がります。
これからなら、読み書きソロバンに変わって「読み書き(英語)AI」が全国に広がることが必要でしょう。大学入試科目にAIでもいれれば、日本のことですから一気にAI大国になると思います。
さらに、文武重視の寛政の時代は「名君の時代」でもありました。ケネディ大統領も尊敬した米沢藩主上杉鷹山や、老中を辞めた後、白川に戻った松平定信は藩経済の改革、今でいう「地場産業おこし」を進めます。これも全国に広がり、明治以降の経済発展につながります。今、多くの国会議員経験者が市長となり、改革を進めています。期待しております。
〇「適疎」の国土政策を
明治の最初に「これから日本の国土に1億人増える」と言われたら、皆、不安になったでしょう。答えが出せるリーダーはいなかったと思います。
しかし、なんとかやってきたのが日本ですから、これからどんどん人口が減っていってもどこかで反転させるか、新しい国土の在り方を考えて乗り切っていくのが日本人ではないかと思っています。
コロナにより働き方も変わったのですから、これを好機と捉え、落ち着いて国土政策を考えることが、長期的に見て人口回復策につながると思います。
その一つの考え方が、「過疎過密」でなく「適疎」、適切な疎というところです。日本の人口密度は332人でG7中トップ。2位のイギリスが276人、3位のドイツが233人です。フランスは5位で118人。つまり、日本は先進国の中で過密なのです。フィリピンが日本とほぼ同じの357人です。
イギリスやドイツの人口密度が「適疎」でそれが美しい街並みにつながっていると思います。人口減少の視点を変えて、これからは「適疎」な国土政策を展開する。それが長期的に見れば、住環境を変え、地方を活性化させ、人口を回復させることになると思います。
特に、これを担う地方のリーダー、経営者の役割は重要です。明治時代の文豪、徳富蘆花は「英仏の例を見ると、国家の実力というのは地方に存在する。地方の血液が新鮮であれば、国は元気旺盛である」と語っています。私も全く同感です。
日本を代表する企業であり、日本時価総額第一位のトヨタが転換期を迎えようとしています。「三河モンロー主義」を脱し、「世界のトヨタ」に育てあげた名誉会長の豊田章一郎氏が97歳でご逝去なされました。2009年から14年間トヨタ社長をつとめた豊田章男氏が4月1日より社長から会長となり、53歳の佐藤執行役員が社長に就任します。
佐藤新社長は、「EVファースト」を掲げ、世界に遅れをとったEV化路線へ大きく舵を切ろうとしています。EV向けに最適化したテスラの1台あたり純利益はトヨタの5倍強。中国EV大手BYDもトヨタに迫ります。その道は決して平たんでないナローパスですが、トヨタが変わらずに繁栄をし続けるには、変わらざるを得ないでしょう。
しかし、変わらず継承してほしいものがあります。トヨタの遺伝子に刻み込まれた「豊田綱領」とそれによって築かれた「日本型パーパス経営」の思想です。
〇日本型パーパス経営と豊田綱領
2月初旬、トヨタグループの有力会社から講演にお招きいただきました。いただいたテーマは、「日本型パーパス経営と飛躍の経営戦略」というものでした。
パーパス経営とは2020年にビジネスラウンドテーブルが「企業は株主だけでなく、従業員、取引先企業、地域社会、地球関係などの利益に配慮すべきである」「企業は自社の利益の最大化だけでなく、パーパスの実現を目指すべき」というものです。ステークホルダーに目を向けて経営すべきという意味でステークホルダー主義とも言われます。
1990年代から21世紀初頭に市場経済重視、新自由主義を旗印とするノーベル賞経済学者、ミルトン・フリードマンが提唱した、「フリードマン・ドクトリン」が一世を風靡しました。「企業経営者の唯一の使命は株主利益の最大化であり、社会的責任を取らないでもたらされる利潤の最大化は善である」というものです。パーパス経営は「フリードマン・ドクトリン」を否定します。
パーパス経営を2021年のダボス会議が取り上げ、注目されたころ近江商人の「三方良し」こそ日本型パーパス経営だといわれました。「売り手良し、買い手良し、世間良し」というものです。
講演の準備をしている中で、豊田創業家がまとめた行動指針、「豊田綱領」を拝見しました。要約すると「自分の為、会社の為ということを超えて、『お国の為、社会の為』となれているかどうか。この価値観を全員が共有できているか」というもので、章一郎氏も常にこれを意識し、章男氏や次期社長の佐藤氏に引き継いだとされています。
豊田綱領を見ながら、これこそパーパス経営の思想そのものではないかと思いました。
〇フリードマン・ドクトリンの負の遺産がGEを没落させた
GEは1892年、エジソンが創業し、単なる企業ではなく、米国そのものを代表する企業でした。GEは米国の成長と共に成長し、時代と共に進化し、創業以来最大の力を蓄えて21世紀に歩を進めました。2000年のピーク時には、米国で最も価値のある企業となり、その企業価値は6000億ドルに迫りました。
その推進役だったのが、フォーチュンで「20世紀最高の経営者」に選ばれたジャック・ウェルチです。「市場で1位か2位になれる事業だけに集中すべき」という「選択と集中」経営戦略は当時、もてはやされました。しかし、歪みも大きかったようです。
ジャック・ウェルチは、「フリードマン・ドクトリン」を地で行くような利益と株価を最大限に追求した経営を行いました。当時のGEでは業績目標がまず決められ、どうやってそれを達成するかは二の次でした。目標達成はあらゆる手段を正当化しました。目標達成に必要な数字が各事業に割り振られ、方法はどうであれ、数字を達成することが厳しく求められました。
利益を上げるためにウェルチは徹底的な人員整理を行いました。彼はCEO在任中に全社員の4分の1にあたる10万人以上の社員を削減しています。
ウェルチは環境問題に対しても消極的でした。自社工場の廃棄物が原因となったハドソン川のPCB汚染問題では、土壌汚染を浄化する費用で政府と激しく対立します。自社の利益を優先する不誠実な姿勢に対して社会から強い批判を浴びています。フリードマン・ドクトリンを体現する経営だと言っても過言でないでしょう。
社外取締役を務めていると、この思想に影響を受けた、かつての「大企業役員経験者」に時々遭遇することがあります(笑)。
ウェルチの後任CEOのジェフリー・イメルトには私も何度かお会いしました。初対面の時、Senior Vice President of CEO officeという私の名刺を見て、「孫さんのもとでやるのは大変でしょう」と明るく、孫社長にも聞こえるように大きな声で話されていました。
ジェフリー・イメルトは、ウェルチのフルードマン・ドクトリン経営がもたらした「負の遺産」に悩まされます。
稼ぎ頭だったGEキャピタルはリーマンショックの打撃をもろに受け、大量の不良資産を抱え込みます。その結果、GEは深刻な経営危機に陥ります。
社員のモラルも下がっていました。上司が部下のパフォーマンスを評価し全社員をランク付けする「ランク・アンド・ヤンク」という制度を導入し、毎年下位10%にあたる社員が解雇されました。社員は常に競争意識をあおられ、強いプレッシャーとストレスを受けていました。
イメルトはデジタル事業に注力することでGEを再生しようとしました。しかし、結局、金融事業の代わりになるほどの成果は生み出せず、社員からの協力も得られないまま退任します。
GEは2024年までに電力、医療機器、航空エンジンの3つの事業会社に分割され、それぞれの会社が株式を上場する計画です。アメリカきっての名門企業はあえなく解体となり個々に再起を期すことになったのです。(「GE帝国衰盛史」ダイヤモンド社を一部参考)
〇「志魂商才」のススメ
日本資本主義の父と言われ、来年から新一万円札の顔になる渋沢栄一は、世の中に役に立つという武士道と商才の融合が必要と「士魂商才」を唱え、志の書「論語」による経営を勧めました。21世紀の日本企業は一歩を進め、「志魂商才」による経営を進めるべきと思います。
松下幸之助は昭和7年、37歳のとき「物資を水道の水の如く、安価無尽蔵に供給して、この世に楽土を建設することが使命である」としました。貧乏を克服する「水道哲学」を経営の「志」としました。「志魂商才」の魁と言ってよいでしょう。
企業にとっての「志」とは「会社」の枠組みを超え、社会、国家、世界をいかに変え、貢献するかというものです。
幸いに、ミッションからパーパスへの動きの中で、「志魂商才」をとなえる企業も増えてきました。
ジェームズ・コリンズの著書で日本唯一のビジョナリーカンパニーとされたソニーは「ユーザーの皆様に感動をもたらし、人々の好奇心を刺激する会社であり続ける」という旧ミッションを、「クリエイティビティとテクノロジーの力で世界を感動で満たす」にしました。
サイバーエージェントは「21世紀を代表する会社を創る」というミッションを基盤に昨年「新しい力とインターネットで日本の閉塞感を打破する」というパーパスを発表しました。
フリードマン・ドクトリンを脱し、日本型パーパス主義である「志魂商才」で経営をすすめる事が企業が長期的に飛躍し、日本経済が復興する道であると思います。
謹啓 立春の候 コロナを5月から5類にすると岸田総理が発表しました。もうそろそろ海外出張も良いだろうと思い、シンガポールで開かれたメガバンク主催の会で講演させていただきました。
2019年12月の中国深センでの講演以来ですから3年ぶりの海外出張。羽田空港での保安検査は今まで経験したことのないような長蛇の列で40分以上かかり、前途多難を思わせました。
ところが、シンガポール、チャンギ―空港ではすべてがデジタル化されており、極めてスムーズ。会場のマリーナ・ベイ・サンズのホテルに宿泊したのですが、50階の窓から見えるガーデンズ・バイ・ザ・ベイのイルミネーションショーも美しく、活気があり、港には多くの船が停泊し、シンガポールの勢いを思わせました。
〇シンガポールをライバルと思う首長を
シンガポール成功の原因は、政治のリーダーシップ、外資誘致、高度な教育制度の3つと言われます。
私が松下政経塾で学んでいた1980年代、松下幸之助塾長がリー・クアンユー氏にお会いしたということで、シンガポールについて話されたことがあります。
「各国の企業はどんどん来てください。10年間は無税ですよ。儲け次第です(笑)とやるから世界の企業が出てくる。税を取らない代わりに他人の力によって金も技術も持ってくる。そこへ建ったものはシンガポールの国のものですわな。持って帰ることができない。他人の力、他人の知恵で自分の国を立派にする。非常にうまいやり方です」
シンガポールの成功の要因の一つである外資誘致について述べたものです。シンガポールの外資誘致は成功しました。外資系企業は現在4000社に上っています。
面積は20年現在で728平方キロ。よく、東京23区の626平方キロと同じくらいと言われますが、1965年の独立時の581平方キロから埋め立てを進め、25%も国土が増えています。「明るい北朝鮮」といわれることもありますが、政治のリーダーシップが発揮されている証拠でしょう。
今年は統一地方選挙の都市です。シンガポールの人口は545万人で北海道517万人とほぼと同じです。神奈川923万人、大阪878万人は独立国といってもいい人口です。北海道も含め、いずれも3月23日告示、4月9日投票です。静岡、浜松など政令市長選挙も目白押しです。知事も政令市長も大統領制並みのかなりの権限を持っており、シンガポール並みの地域経営をすることも可能です。知事選で、シンガポールがライバルと思うような首長が当選され、日本全国で外資企業誘致競争が起きることを期待します。
〇シンガポール出島構想
世界の大学ランキングでは日本の東大、京大は国立シンガポール大学の後塵を拝しています。最新の英国、タイムズ・ハイヤー・エデュケーションのランキングによると1位がオックスフォード、2位がハーバード、シンガポール大学が19位です。東大は39位、京大が68位ですからかなり差をつけられています。
これに準じてでしょう。シンガポールにはAI革命などのパラダイムシフトに乗ったユニコーンが12社もあります。日本のユニコーンは10社しかありません(22年11月時点)。
今から5年前の2018年、時の安倍総理が未来投資戦略で2023年までにユニコーン20社という目標を立てました。私も大変期待していたのですが、達成率50%に終わりました。
岸田総理が2027年度までに「ユニコーン100社創出計画」を発表しました。スタートアップへの投資額を現在の8000億円規模からこれも5年後の2027年には10兆円規模と10倍増にすることをシンガポールでの講演でも話しました。でも、反応はかなり薄かったです。
考えてみれば人口545万人の国に12社のユニコーンがあるのですから、人口1億2000万人の日本なら100社あっても当たり前で、画期的な政策でも何でもありません。比率で言えば、200社あって当然ということになります。
岸田総理は海外における起業家拠点としての「出島構想」を発表しています。2027年までに起業家を1000人派遣する目標だそうです。シリコンバレー、ボストン、このところ成長著しく、テスラのイーロンマスクの住んでいるオースティン。イスラエル、北欧のほかにシンガポールも候補地として上がっています。
私はシリコンバレーや、ボストンよりもシンガポールのほうが日本人若手起業家の活躍できる可能性が高いと思っています。
その理由は第一にアメリカよりアジアの方が日本人のビジネス文化に会うこと。孫正義が投資に大成功したヤフーも場所はシリコンバレーでしたが、創業者はアジア人でした。もう一つのアリババも、中国、アジアです。
第二にシンガポールは日本とウィンーウィンの関係を作りやすい東南アジアのビジネスのハブであるということ。ウクライナ侵攻が長期化し、米中関係が悪化する分断された世界では、東南アジアが漁夫の利(?)を得て、成長の可能性が高いです。
第三の理由は、私のカンです。松下幸之助も孫正義も21世紀はアジアの時代と言っていました。2050年の世界のGDPランキングでは、1位中国、2位インド、3位米国、そして4位はインドネシアと予測されています。シンガポールは世界のGDP1位、2位、4位の国のビジネスハブになるのです。
多くの人が、シリコンバレーやボストンに行きたいと考えるでしょう。ただ私の周囲にいる若き起業家達には飛躍的に成功したいと思ったらシンガポールの「出島」を目指すべきと勧めています。
謹啓 大寒の候 富山県での講演にお招きいただきました。北陸新幹線「かがやき」の車窓から見る日本海は荒海でまさに「悲しみ本線日本海」でした。約3時間後、湘南に帰り海へ行ったら、穏やかで太陽がキラキラと輝いていました。湘南にいると、人生観がずいぶん楽観的になることを実感しました。
〇ダボス会議の見通し、悲観から楽観へ
1月20日まで、スイスではダボス会議が開催されていました。今年のテーマは「分断する世界での協力」。世界から集まった2700人の政財界のリーダーの予測は悲観から楽観に変わりました。23年後半からよくなり、24年はもっと良くなるという予想です。
孟子にある「天下の英才を集めて教えることは君子の楽しみ」にならって、30代の将来有望な若手経営者のアドバイザーを何人かしております。彼らには、世界の動き、グローバルな視野を得るために、ダボス会議に参加することを進めています。
日本からは、河野太郎大臣、西村経済産業大臣ら議員の中で、自分は英語ができると思っている人(笑)が出席しています。敷居が高いと思われがちですが、日本からも若手経済人が参加しています。そこで、アドバイザーをしている若手経営者に進めている次第です。
今回注目されたのは、ゼロコロナ政策を転換した中国です。中国の経済運営を指揮する劉鶴(リュウ・ハァ)副首相は講演前に深々と聴衆にお辞儀をしました。珍しいことです。
「懸命に努力すれば、経済が正常化する可能性は高いと確信している」とし、「23年には著しく改善するだろう」と強調しました。
国際通貨基金のゴピナート筆頭副専務理事は、IMFが経済見通しを上方修正することを示唆しました。2023年は「前年より厳しい年」ではなく、むしろ年後半から24年にかけて「改善」が見込まれるとしました。
アメリカ、バイデン政権が総額3690億ドル(約48兆円)を投じて国内のグリーン投資を活性化する「インフレ抑制法(IRA)」も世界的に、評価されています。オーストラリアの自然エネルギー事業者、マーク・ハッチンソンCEOは、IRAに盛り込まれた税優遇措置は「非常に大きい」とし、「米国事業に可能な限り投資資金をつぎ込むつもりだ」と語りました。
昨年5月の総会では、ウクライナのゼレンスキー大統領のオンライン出席でわきました。今回も同じだったのですが、空席も目立ち、5月にはあった聴衆総立ちのスタンディングオベーションもなかったとのことです。ウクライナ問題に「疲れ」が出てきてもいるのでしょうが、冷静さを取り戻しているのも事実です。
〇韓国の30代経営者、毎年ダボスに
ソウルの汝矣(ヨイド)島に63ビルという地上60階の黄金色の高層ビルがあります。これは韓国の財閥、ハンファグループ所有なのですが、私は3年前からハンファグループの自然エネルギー事業を展開するハンファソリューションの取締役をしています。私の著書が韓国で出版され、ハンファグループの社長会で講演。その後、ハンファのオーナー一族の長男で、まだ30代のK副社長から取締役(社外)として招聘されるという韓国ドラマのような展開でした。
そのハンファソリューションがバイデン政権のグリーン投資活性化策を活かし、アメリカ、ジョージアに3300億円の太陽光パネル投資をすることを1月11日の取締役会で決定しました。この決定には、バイデン大統領自身が声明を出すという歓迎ぶりでした。このプロジェクトを実質上主導しているのが30代のK副社長です。
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN11E0W0R10C23A1000000/
K副社長は、ハーバード大学卒。儒教文化圏である韓国で教育を受け、徴兵制のある韓国ですから、軍隊で訓練も受けているので、年長の私にたいへん礼儀正しい人でした。そして、ダボス会議には毎年参加して世界の動きを予想しているとのことです。
K副社長がダボス会議に参加しながら、グリーン投資の重要性とアメリカ、ホワイトハウスの動きをつかみ、今回の投資を進めたことは間違いありません。蛇足ですが、K副社長は後継者候補の一人ですので、このプロジェクトが成功すればその道を一歩進めることになるでしょう。
1人当たりのGDPで日本が韓国に抜かれる日も近いと予想されています。韓国の繁栄を素直に見なくてはいけません。そして、若手経営者が毎年ダボス会議に行ってグローバルに行動し、見識を高めている事実も素直に見るべきです。
このメルマガを読んでいただいている若手経営者の方、あるいは後継者を教育しようとしている方はぜひともグローバルな視野を持ち、研鑽の在り方を考えていただきたいと思います。
そして、第一歩としてダボス会議には毎年参加するか、少なくとも議論を注目し、世界の動き、トレンドをつかんでいただきたいと思います。
謹白
本年は世界的にはインフレの抑制と成長の両立がテーマになります。
インフレ抑制の為に金融政策で金利を上昇させ供給を増加させ、成長を促進する為に時代を拓くイノベーションを促進することが重要になります。
1月5日、京都を本社とし、1年前に上場された会社の23年初出社式の講演にお招きいただき京都に行ってまいりました。
90年代生まれの若い人たちが多かったので、3年後の2025年には人間の労働量とロボットの労働量が同じになること。以前は、入社時にソロバン3級が必要だった。それが電卓になり、パソコンになりエクセルが使えないと仕事ができなくなったようにAIを使いこなせないと仕事ができなくなる。2025年までには世界で8500万人の雇用が無くなり、AIの専門家など9000万人の雇用が生まれるという話をしました。
AIを使いこなすには、ビジネス力、データサイエンス力、データエンジニア力のスキルセットが必要です。スマホ革命の時代に、スマホをおもちゃのように使い倒したところから、イノベーションが生まれたように、若い人がAIを使い倒すところからイノベーションが生まれます。
〇日露戦争勝利の因は海底ケーブル
会場のウェスティン都ホテル京都から「朝がゆ」で有名な瓢亭に向かって歩くと「無鄰菴」という山縣有朋の別荘があります。東山を主山とし、琵琶湖疎水からとった瀬音が楽しめる素晴らしい庭があり、茶室と洋館が立っています。
この洋館で、1903(明治36)年4月21日に日露戦争直前の日本の外交のゆくえを決める歴史的な会合が開かれました。出席者は枢密院議長伊藤博文、外務大臣小村壽太郎、総理大臣桂太郎、そして元老山縣有朋です。
その前年1902年、日本は日英同盟を結んでいました。英国に対抗し、露仏同盟で連携するロシアとフランス。極東へのロシア勢力拡大は心配だが、南アフリカ戦争の後処理で手いっぱいだったイギリスは日本にロシアを抑え込ませるため、「栄光ある孤立」を捨て、小国日本と同盟を結びます。無鄰菴会議で日露戦争への方針が議論されました。その決断を促したのが日英同盟締結であったことは想像に難くありません。
この日英同盟は20年以上継続し、日本外交の基本となるとともに1904年に起こる日露戦争での勝利をもたらしました。実は、この勝利には「海底ケーブル」というイノベーションがありました。
当時の英国は海底ケーブルを引きまくっていました。さらには007で有名な(?)諜報機関とあいまって世界の機密情報を集めていました。日本にも海底ケーブルがひかれており、機密情報が即時に入手できたのです。
海底ケーブル事業は、特殊ケーブルの開発、巨大敷設舟の建造などリスク高い事業でした。世界に植民地をもっていたイギリスは果敢に挑戦し、世界の海底ケーブルを席巻したのです。バルチック艦隊がどこにいるのか、補給でかなり苦しみ、士気が落ちているという情報は逐次、日本に入ってきました。
日露戦争は情報戦でした。英国による海底ケーブル、さらにはその使用を可能にした日英同盟が勝利を小国日本にもたらしました。日英同盟は小さな企業が技術も信用も持った大企業とアライアンスを組むようなものだったのです。
〇今年こそ、AIとの新結合=イノベーションを
小さな企業が大きく飛躍するには、イノベーションに着目し、それを使いこなすことが必要条件です。イノベーションは日本では「技術革新」と訳されますが、シュンペーターが
述べたのは、既存事業+テクノロジーで「新結合」を生むことでした。
Amazonは従来からあった、通信販売をインターネットと新結合=イノベーションした事で飛躍しました。サイバーエージェントは、広告業界でまだ発展途上だったネット広告に特化したことで、一時期、時価総額1兆円企業になりました。広告をテレビでなくインターネットで流すという新結合=イノベーションに成功したのです。メルカリはこれも従来からあったフリーマーケットをSNSと新結合したことでユニコーンへ飛躍しました。
今、AIに十分取り組んでいる、成果が出始めていると実感して企業はほとんど無いでしょう。15年前、iPhoneが登場した直後に、スマートフォンの機能を使いこなしている企業が無かったのと同じです。
既存事業にAIというテクノロジーを新結合させる挑戦を始めていただきたいと思います。
そうすれば、3年後の2025年にはAIイノベーションで飛躍した企業として、日本経済をリードしていると思います。
講演にお招きいただき、ふるさと岐阜に行ってきました。11月の信長武者行列にキムタクが信長となり、岐阜市の人口を超える46万人が集まったことをニュースで見られた方も多いと思います。
織田信長の居城、岐阜城を仰ぎながら若き日に司馬遼太郎の「国盗り物語」を読んで胸躍らせたことを思い出しました。
織田信長が凄いと思うのは、戦略目標を見失わずに一直線の最短ルートだけをとったことです。信長も恐れた武田信玄や上杉謙信が川中島で5回も戦っていたのは、天下を取るという意味では遠くの局地戦に過ぎなかったのです。
1934年6月23日に生まれた織田信長が歴史に躍り出る桶狭間の戦いは1560年、信長26歳の時でした。2代目経営者としてもかなり若いと言えます。
「天下布武」で自らのビジョンを明らかにしたのは1567年、織田信長33歳の時です。天下に武を敷き、天下を統一し、戦いのない平和な世のなかを創る。そのためには京都を抑えることが重要と見定めた信長は一直線に京都に結ぶ線だけを攻めました。
そして長期ビジョンの前に、短期的には小成功が必要と考えたのでしょう。明智光秀を介して、将軍家足利義昭を保護する立場となり、京都上洛を目指します。
1567年に稲葉山城の戦いで尾張、美濃の二か国を領して京都への道筋をつけた信長は近江の浅井氏とは妹、お市の方を嫁がせるというヨーロッパ、ハプスブルグ家並みの婚姻外交をします。
そして、将軍足利義昭を奉じ上洛、1568年に京都の東寺に入ります。織田信長34歳。天下布武のビジョンへの短期目標であった「京都上洛」はわずか1か年で達成されました。
〇長期ビジョンと短期目標の成功
天下布武のビジョンが当時の織田家には途方もない目標で、家臣にとっては現実味が薄かったと思います。しかし、わずか1年で「京都上洛」を果たしたことは、家臣たちに「天下布武」もできない目標でないと思わせたのでしょう。
はるかに高い戦略目標を掲げながら、短期的には小さな成功を果たすことが重要です。その後、織田軍団は怒涛の勢いで日本統一に向かいます。やはり、長期的なビジョンを掲げることが重要なのです。
残念ながら、1582年6月2日、織田信長は48歳で最後を迎えます。しかし、「天下布武」のビジョンは豊臣秀吉に引き継がれ、実現してゆくのです。
多くの経営者がビジョンを掲げます。最も重要なことは、ビジョンの戦略目標への一直線の最短ルートは何かを考えることです。次に重要なのは、社員らがこのビジョンなら実現できると思わせる事。そのためには最短ルートに上にある小さな目標を定め、スピード感をもって成功させることです。そうすれば、社員は腹落ちし、歩み始め、客観的には達成できなかったようなことが実現できると思います。年末年始のお休みには、ぜひともビジョン実現のための短期目標をお考えいただきたいと思います。
謹啓 大雪の候 講演で大阪にお招きいただき、久しぶりに大阪城に行ってきました。
宣教師たちが「コンスタンティノープル以東最大の要塞」といって讃嘆した秀吉時代の大阪城はベネチアやニューヨークのように、海から見た姿が最も美しかったそうです。
織田信長は「大阪はおよそ日本一の境地なり」と言い、早くからここに海内の中心を置こうとしました。
その構想を継いだ秀吉は、大阪を大明国を含めた東アジアの中心にしようとし、10万人を収容できる居城を造りました。私は豊臣秀吉の明るさと大風呂敷ともいえる構想力になんとも魅かれます。
その後、徳川幕府によって秀吉時代の大阪城は破壊され、その上に現在の大阪城の石垣が創られました。
松下政経塾時代の若き日、先輩塾生が松下幸之助塾長に質問しました。「織田信長は『鳴かぬなら殺してしまえホトトギス』、豊臣秀吉は『鳴かせてみようホトトギス』、徳川家康は『鳴くまで待とうホトトギス』と言いました。塾長ならどう言われますか」
松下塾長は、少し考えられ、その塾生に答えられました。
「わしなら『鳴かぬなら、それもなおよしホトトギス』だな」
その場にいた私は、「なるほどこれが、今太閤とも呼ばれた松下幸之助の経営、人使いの極意か」とすごく納得したことを覚えています。
〇2025年
現在の天守閣は昭和6年に再建されたものです。その前に、1970年の大阪万博の際に「タイムカプセル」を埋めた場所があります。開けるのは5000年先の6970年。今から、5000年前というと、エジプト文明やメソポタミア文明の時期です。大阪城を選んだのは、歴史的場所であり、5千年後にも残っている可能性が高いからということです。
タイムカプセルは1970年万国博覧会の松下館に展示されました。なかには、ソロバンや、自動車センチュリー、新幹線の模型、文芸春秋、婦人公論や平凡パンチなどが入っています。松下幸之助塾長の、「5千年後の人類に送るメッセージ」の録音テープも入っています。1970年の万博は夢とロマンがありました。
万博には後の時代を創る新技術が出展されます。1853年のニューヨーク万博でエレベーターが出展され、後のニューヨークの摩天楼建設を可能にしました。1876年のフィラデルフィア万博では電話が出展されます。
1970年万博は「動く歩道」などがありましたが、注目すべきは「ワイヤレスホン」が出展されたことです。これが後の携帯電話につながり、スマホ革命を生みました。
2025年の大阪万博は、まだ盛り上がりに欠けているようですが、「世界で類を見ない自動運転の実験場になる」そうです。
今までの10年間、モバイルが我々の生活を変えてきました。これからの10年間はモビリティ(自動運転)が鍵となります。2025年大阪万博が日本と日本人に夢とロマンをもたらしてくれることを期待します。
謹白
謹啓 小雪の候
経済産業省の「未来人材会議」の発表したデータが注目されています。そこには「日本企業の部長の年収はタイよりも低い」「日本は高度外国人から選ばれない国になっている」とありました。
日本の部長の年収は平均44歳で1600万円、アメリカは37歳で3000万円。タイは32歳で2000万円だというのです。これは2019年のデータ比較ですから、円安の影響はありません。
英国の経済学者、リンダグラットンが「ライフシフト」で20代前半まで教育を受け、60代まで働き、その後引退という人生モデルは、人生百年時代には適さないと提言したのは今から7年前です。
彼女の提言の本質は第一に「国際競争が過激になり、世界中の労働者と競争することになる」。第二に「単なるジェネラリストの中間管理職は激減する」。その結果、「スキルを蓄積しようとしない国では労働者は低賃金で暮らすことになる」というものです。さらに、自分を2つ以上の専門性を持つように「ライフシフト」しなくてはならないというものです。
日本の人材投資(OJT以外)は、GDP比の0.1%。アメリカは2%です。さらに二つ以上の専門性を持つ人はほとんどいません。リスキリング(新知識を学ぶこと)も低調です。「日本の部長の年収がタイより低い」は自分に教育投資をしてこなかったという理由があるようです。
〇3年後、ロボットと人間労働量が同じに
コロナの行方はまだ見通せませんが、講演のご依頼をいただくことが多くなりました。
IOT、AIが進んでいるK製作所の管理職研修にお招きいただいたのですが、テーマの一つが「働き方」というものでした。
ダボス会議で有名な世界経済フォーラムは、ロボットの労働量が人間の労働量と同じになるのは2025年、3年後と予測しました。 DXによって世界で8500万人の雇用がなくなりますが、AIの専門家など9700万人の雇用が生まれます。世界全体で10億人のりスキリング(新知識を学ぶこと)が必要としています。
是非とも、IOT、AIが進んでいるK製作所がリスキリングなどを進め、時代に適合した「働き方」を実現してほしいと申しました。
昭和の時代、アメリカを視察した松下幸之助は「アメリカは週に2日休みにもかかわらず日本の10倍給料を払っている。それでも会社はもうけている。1人当たりの生産量が10倍だからだ」と驚きました。「一日休養、一日教養」で生産性を上げようと、松下電器(当時)が日本でトップランナーとして「週休2日制」を導入したのは1960年のことです。令和の時代には、K製作所がトップランナーになってほしいと思っております。
質疑の時間となりました。1人のリーダーが言われました。
「今、IOT、AI、自動運転などを導入して工場を大改革中です。改革が終わり完成したら是非、嶋さんに見に来てもらいたいです」
私も是非とも見せていただきたいと思います。謹白
謹啓 立冬の候
伊豆の山並みに夕日が沈むとき、相模湾が輝き茜富士がなんとも美しい湘南です。
2月24日からのウクライナ侵攻が長期化しています。2月時点でロシアに進出していた日本の上場企業168社のうち18社、約11%が撤退を決めました。
ただ、世界に目を向けると日本企業の撤退への経営決断の遅さが目立ちます。英国は47%、米国は28%の企業がすでに撤退をしています。全世界主要企業1300社のうち、23%にあたる300社、23%が撤退を決めており、日本は先進7か国中2番目に低い水準です。ちなみに最下位はイタリアでした。(エール大学調査)
撤退は進むよりも難しいものです。孫正義氏は「僕も何度も退却戦を経験しました。退却をするときは攻めるよりも十倍勇気がいるんです。マスコミにはめちゃめちゃ叩かれる。ジョイントの時はパートナーにも迷惑をかける。そこで一生懸命やっている部下たちもいる」と言います。
孫氏は後継者育成のソフトバンクアカデミアで「退却をやれるものだけが、リーダーとしての資質がある。意地でやるやつはバカだと思え。退却できない奴はバカだと思え。そんなケチな奴がリーダーになっちゃいけない」と激しく述べています。
中国の「左伝」に「可を見て進み、 難きを知りて退くは、軍の善政なり」とあります。「有利なら進めばいい。だが、不利と見たらいち早く撤退するのが、作戦の原則である」という意味です。2023年は世界全体がスタグフレーションに陥る可能性が高いです。経営に携わるリーダーたちは苦境事業の撤退を視野に入れる時期かもしれません。
〇撤退の上手いリーダーが天下を取る
私の著書「孫正義の参謀」(東洋経済)が中国語に翻訳されていることもあり、コロナ以前はたびたび中国に講演に招かれました。三国志の蜀の国、劉備玄徳本拠地で、諸葛孔明のお墓、武侯祠のある成都にもお招きに預かりました。講演での私の紹介は「孫正義の孔明」というもので、お土産に孔明がもっている羽で創った軍扇をいただきました。
ただ、私は孔明より、漢の高祖・劉邦の軍師、張良のほうが好きです。張良が座右の書とした「六韜三略」は私が戦略・戦術を考える際の原典となっています。私がソフトバンクに入る2005年10月、孫正義社長に「ソフトバンクの張良になりたい」という手紙を差し上げたことがあります。
劉邦は、ライバルの項羽と天下を争いました。 初めは戦うたびに敗れ、逃げ回ってばかりいます。そんな中で、じわじわと勢いを盛り返し、ついに逆転に成功します。劉邦が天下 を取れたのは、逃げ方がうまかったからだと思います。
中国史を紐解いていますと、 大きく勢力を伸ばして天下を取ったのは撤退のうまい人物 でした。 進むことを知って退くことを知らない、リーダーは、 ほとんど 途中で潰されています。 勝ち上がっていくのは撤退のうまいリーダーで、これには 一人の例外もありません。
戦略の「略」は略することを意味します。撤退によって余裕ができた人材、資金を重点分野に投入することは天下を取る「戦略」です。「撤退」は伸びる前に縮むこと。あくまでも天下を取るための戦略への準備なのです。
謹白